ミステリーとしての読みどころ
世界でいちばん売れたミステリ、と紹介される小説があります。累計一億部を超えるというその数字は、もはや一冊の本の話というより、ひとつの現象の規模です。
けれど『そして誰もいなくなった』の凄みは、部数の大きさそのものにあるのではありません。中身が、その途方もない数字に少しも負けていないところにあります。
あらすじを聞き知っているつもりの人でも、実際にページを開くと、序盤の数十ページで確実に何かに掴まれる。八十年以上ものあいだ世界中で読み継がれてきた重みを、読者は自分の手のなかで確かめることになります。
著者について
作者はアガサ・クリスティー。本作を書いた一九三九年、彼女はすでに多くの代表作を世に送り出した売れっ子作家でした。
同じ年、原書は英国のコリンズ・クライム・クラブから刊行され、デイリー・エクスプレス紙にも六月から七月にかけて連載されています。目を引くのは、これがシリーズ探偵を持たない単発の長編だという点です。
看板の名探偵に頼らず一篇を組み上げるのは、書き手としての腕を正面から問われる仕事であり、彼女にとって大きな挑戦でした。のちにクリスティ自身、この着想を「あまりに難しく、それゆえに強く惹きつけられた」と振り返っています。
ヨーロッパが戦争の瀬戸際にあったその年に、すでに頂点に立っていた作家が、あえて最も手強い企てのひとつへ踏み出した——本作にはそういう緊張が最初から張り詰めています。
物語の舞台は、英国デヴォン州の沖合に浮かぶ小さな孤島——兵隊島です。そこへ、たがいに面識のない男女十人が、それぞれ別の招待状に導かれて渡ってきます。
顔ぶれは実にさまざまです。奔放な遊び人の青年、ハーレー街に診療所を構える医師、威厳ある判事、無骨な刑事、金で動いてきた元傭兵、信心深い老嬢、どこか落ち着かない召使いの夫婦、勲章に輝く老将軍、そして神経質な秘書。
年齢も職業も育ちも重ならない十人が、なぜか同じ島の、同じ屋根の下に集められます。
ところが、彼らを招いたはずのオーエン夫妻の姿は、島のどこにもありません。主のいない邸宅で初対面の挨拶をかわし、たがいを探り合ううちに、最初の晩の食卓で奇妙な声が響きます。
それは居合わせた一人ひとりの名を挙げ、彼らがかつて犯した罪を容赦なく暴き立てていく声でした。和やかだったはずの空気が、一瞬で凍りつきます。
そして、それぞれの部屋の壁には、同じ童謡が額に入れて掛けられていました。十人の小さな兵隊が、一人また一人と数を減らしていくという、あの歌です。
やがて島では、その歌詞をなぞるように、招かれた者たちが順番に命を落としはじめます。本土から切り離された岩ばかりの島に、逃げ場はどこにもありません。
残された者たちは、この顔ぶれのなかの誰かが手を下しているという事実を、否応なく突きつけられていく。次に歌へ呑まれるのは誰なのか——読者は生き残った側の肩越しに、その息詰まる時間をともに過ごすことになります。
読みどころ
この作品の底力は、仕掛け以上に、十人の人物が一人ずつ確かな像を結んでいるところにあります。 島に集まるまでの短い章立てのなかで、それぞれがどんな人生を背負い、何に怯え、誰をどう値踏みしているかが、手際よく描き分けられていきます。
だからこそ、後半で緊張が張りつめたとき、彼らの一挙一動が生きた重みを持って迫ってくる。発表から長い歳月が過ぎ、タイトルも童謡も孤島という道具立てもすっかり広く知れ渡ったいまなお、実際に読み始めれば必ず何かに掴まれるのは、この人物の手触りゆえでしょう。
名前だけは誰もが知っている一冊でありながら、実際に読み通した人の胸にだけ残るものが、確かに存在するのです。「あらすじを知っている」と「読んだことがある」のあいだには、本作の場合、とてつもなく深い溝が横たわっています。
何も知らないまま最初の数十ページを開ける——その経験そのものが、この本のいちばんの贈り物です。ですから、細部を語られてしまう前に手に取れる人ほど、大きく得をします。
逃げ場のない状況でじわじわと追い詰められていく緊張感を味わいたい読者に、まっすぐ薦められる一冊。明るく軽やかな読み心地を探している晩には、この息苦しさは少しこたえるかもしれません。
それでも、読み終えたあとしばらく黙り込んでしまうような読書を求めるなら、これ以上ふさわしい相手はそうそう見つからないはずです。
手に取るなら
日本では早川書房のクリスティー文庫、青木久惠による新訳決定版で手に入ります。巻末には赤川次郎の解説を収録。
電子書籍のKindle版、朗読のAudible版もそろっており、はじめの一冊としても選びやすい環境が整っています。世界じゅうで一億部を超え、百以上の言語に訳され、舞台や映像へと姿を変えながら読み継がれてきた一作です。
読み始める前の「まだ何も知らない状態」こそが最大の財産だと思って、そっとページを開いてみてください。