嘘をもうひとつだけ
嘘を隠すために嘘を重ねてしまう人々と加賀が向き合う、五つの物語を収めた短編集
小さな嘘は、ときに思いがけないほど大きな影を引きずります。一度ついてしまったら、それを守るためにもうひとつ。
そうやって重ねた言葉の上に、人はどこまで立っていられるのか。加賀恭一郎シリーズの第6作は、そんな問いを五つの角度から差し出す短編集です。
物語の入り口
表題作の舞台は、あるマンション。バレエ団の事務員がバルコニーから転落して亡くなり、事件は自殺として片づけられる方向へ進んでいます。
そこへ加賀が訪ねていくのが、同じ建物に暮らす元プリマ・バレリーナです。彼女には、事務員を手にかける理由など見当たりません。
自殺という結論で幕を引くこともできそうな一件に、刑事はなぜこだわるのか。その問いが、物語の扉を静かに押し開けます。
ほかの4編も、それぞれ別の日常から幕を開けます。帰宅した夫が倒れている妻を見つけ、幼い息子の姿が消えている「冷たい灼熱」。
シングルマザーの恋人が彼女の部屋で殺され、強盗の仕業と思われた「第二の希望」。夫を事故で亡くしたばかりの女性と、同じ日に姿を消した建築士をめぐる「狂った計算」。
そして、加賀の友人が居眠り運転で事故を起こす「友の助言」。
読みどころ
描かれているのは、悪事を楽しむ人々ではなく、正直に生きたいと願っていた人々です。 落とし穴にはまり、思わぬ過ちを犯してしまった。
それを隠すために、さらに新しい秘密を抱え込む。登場人物たちが守ろうとしているものは、たいていごく当たり前の暮らしや、誰かとの関係です。
だからこそ、彼らの言葉のほころびを見つめる場面には、謎が解けていく快さと同時に、ひりひりとした痛みがともないます。
加賀の立ち位置も印象的です。大きな声で相手を追い詰めることはせず、何度も足を運び、話を聞き、相手の答えのなかに残った小さな引っかかりを静かに拾い上げていく。
短い紙幅のなかで、そのまなざしがどれほど粘り強いかがよく伝わってきます。
一話ごとに独立しているので、どこから読んでも楽しめるのも短編集ならではの良さです。それでいて、五つの話を続けて読むと、嘘という一本の糸がそれぞれの物語を貫いているのが見えてきます。
なかには加賀にとって身近な人物が事件の中心にいる一編もあり、ほかの話とは少し違う緊張が生まれます。妻が倒れ、幼い息子が消えた夫、恋人を亡くした人、夫に先立たれたばかりの人。
立場の異なる人々が、それぞれの事情を抱えて加賀の前に立つのです。
こんな人におすすめ
まとまった時間はとれないけれど、一話ずつ確かな手応えのある謎解きを味わいたい人にぴったりです。トリックの派手さより、追い詰められていく人の心の揺れに惹かれる人、加賀の人柄を短い物語のなかで確かめてみたい人にも向いています。
作品の背景
単行本は2000年4月に講談社から刊行されました。収められた5編はどれも一話完結で、加賀が一つひとつの事件に向き合う姿を、短い物語のなかで凝縮して見せてくれます。
シリーズの長編で加賀に親しんだ人にとっては、刑事としての彼の流儀をあらためて確かめる機会にもなるでしょう。
手に取るなら
講談社文庫版が2003年2月に出ており、いまはこちらが入手しやすい形です。一話の長さが手ごろなので、加賀恭一郎という刑事に初めて触れる一冊として選ぶのも悪くありません。
東野圭吾について
東野圭吾は1958年、大阪市生野区の生まれです。大阪府立大学工学部電気工学科を卒業し、日本電装(現デンソー)の技術者として働きながら推理小説を書き、1985年に『放課後』で第31回江戸川乱歩賞を受けてデビューしました。
翌年に会社を辞めて上京し、専業作家になっています。
長く大きな話題作に恵まれない時期が続きましたが、1998年の『秘密』が広く読まれ、翌年の第52回日本推理作家協会賞(長編部門)を受賞しました。2006年には『容疑者Xの献身』で第134回直木賞と第6回本格ミステリ大賞を受けました。
刑事・加賀恭一郎と物理学者・湯川学のシリーズを軸に、学園もの、本格の謎解き、サスペンス、ミステリの約束事を笑うパロディまで幅広く書き、2023年には著作の国内累計発行部数が1億部を超えています。同じ年に菊池寛賞、2024年に日本ミステリー文学大賞を受け、2026年7月に68歳で亡くなりました。
書誌情報
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