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REVIEW · 書評
N° 084 · 2026-07-21
九マイルは遠すぎる 表紙画像
黄金期米国古典

九マイルは遠すぎる

ハリイ・ケメルマン / 早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)
" 耳にした一文だけから事件を演繹する。安楽椅子探偵ものの極北、ニッキイ・ウェルト短編集。
#通勤30分で1話#頭をフル回転させたい#安楽椅子探偵
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review notes

ミステリーとしての読みどころ

「九マイルもの道を歩くのは生易しいことじゃない、まして雨の中では」——通りがかりにたまたま耳に入った、ただそれだけの一文です。スノードン英語学・文学講座教授ニッキイ・ウェルトは、この何気ない言葉ひとつを足場に、純粋な論理だけを手繰り寄せて、まだ誰も知らないはずの事件の輪郭を立ち上げていきます。

現場には足を運ばない。物証も手に取らない。

あるのは、耳にした一続きの言葉と、そこに潜む含意を最後まで追いつめる思考だけ。安楽椅子探偵ものの極北と呼ばれてきた連作短編集です。

著者について

著者のハリイ・ケメルマンは、大学で英文学を講じてきた教師でもありました。寡作な書き手として知られ、表題作を仕上げるのに十四年を費やしたと、後年みずから振り返っています。

たった一篇の短編にそれだけの歳月をかけるというのは、尋常な念の入れようではありません。その丹念さは、のちにラビ・デヴィッド・スモールを探偵役に据えたシリーズ第一作『金曜日ラビは寝坊した』へと実を結び、エドガー賞最優秀新人賞をもたらしました。

ラビ物の作家として名を残す人ですが、本書はそれ以前の、もうひとつの顔を伝える代表作にあたります。

表題作「九マイルは遠すぎる」がエラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジンに発表されたのは、一九四七年のことでした。物語の主役はふたり。

ひとりは、スノードン英語学・文学講座教授の肩書きを持つニッキイ・ウェルト——癇癪持ちで、どこか教師ぶった物言いをする知識人です。もうひとりは、その友人である郡検事。

語り手を務めるのは検事のほうで、名探偵のかたわらに立ち会い、その推理をこちらへ書き留めていきます。ホームズとワトスンの関係を、そっくりアメリカの学園都市へ移し替えたような構図が、全編を静かに貫いています。

物語が動きだすきっかけは、ふたりのあいだで交わされた、他愛のない言葉のやり取りでした。通りすがりに漏れ聞いただけの、なんの変哲もない一続きの台詞。

ふつうなら聞き流して終わるところを、ウェルトは違います。この言葉が口にされ得る状況とはいったいどんなものか、と問いを立て、一歩ずつ論理の糸をたぐりはじめるのです。

「この前提が成り立つのなら、次にはこう言えるはずだ」。命題が次の命題を呼び、条件はだんだんと狭められていく。

そのあいだ、ウェルトは現場に足を運ぶわけでも、物証を検分するわけでもありません。握っているのは、耳に入ったわずかな言語情報だけ。

にもかかわらず、純粋な推理を武器に、些細な手がかりから事件の輪郭がゆっくりと立ち上がっていきます。読者は、彼が積み上げる一手ごとに「本当にそこまで言えるだろうか」と立ち止まらずにはいられません。

そうして気づけば、こちらもメモでも取りたい心持ちで、自分の手でも筋道を検算したくなる場所へと連れ出されているはずです。

読みどころ

この短編集の醍醐味は、推理が徹頭徹尾「言葉」だけで進んでいく潔さにあります。 ウェルトが相手にするのは、現場でも凶器でもなく、耳に入った言語情報そのものです。

そこから論理を展開し、演繹の連鎖だけで真相へ届いてみせる。足で稼ぐ捜査や、あざやかな物的証拠の妙とは、およそ対極にある解き方です。

クイーンが読者に突きつけた「読者への挑戦状」の精神を、さらに純度を上げて突き詰めたような趣向と言えるでしょう。答えを知らされて膝を打つのではなく、探偵とまったく同じ材料を手にして一緒に考えられる——その手応えこそが、この連作が長く語り継がれてきた理由です。

短編という器も、この趣向によく合っています。長編のように筋の重みで引っぱるのではなく、ひとつの論理の運動を、無駄なく最後まで見せきる。

読み終えた瞬間に残るのは、パズルを一問解き上げたときの、あの澄んだ爽快感です。こんなにも純粋に、推理だけで一篇の物語が成り立つのか——その小さな驚きが、次の一篇へと手を伸ばさせます。

一篇あたり三十分ほどで読み切れる分量なので、通勤の行き帰りや、眠る前のひとときにちょうど収まります。物語の重さや情感にどっぷり浸る種類の本ではありません。

人物の心理へ深く分け入る小説を求める読者には、いささか素っ気なく映るかもしれない。けれど、手がかりから答えへ至る思考の運動そのものを楽しみたい人、パズルを解く快感を何より愛する人にとっては、これ以上ないほど純度の高い一冊です。

腰を据えて長い物語に沈み込みたい夜より、頭をフル回転させたい気分の日にこそ、開きたくなる一冊です。

手に取るなら

入手はハヤカワ・ミステリ文庫、永井淳・深町眞理子の共訳で読めます。全八篇を収めた短編集で、一九七六年に邦訳が出て以来、純粋論理の推理を語るうえで欠かせない一冊として書棚に居続けてきました。

クイーンの国名シリーズや「読者への挑戦状」に心躍る読者なら、迷う理由はありません。まずは表題作のあの一文から、ウェルトの思考の速度に付き合ってみてください。

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書誌情報

出版社
早川書房 / ハヤカワ・ミステリ文庫
原書刊行年
1967
邦訳刊行年
1976
翻訳
永井淳・深町眞理子
ISBN-13
9784150711023
系譜
黄金期米国古典 / 連作短編 · 名探偵もの