黄金期英国古典 1952
善意ばかりの屋敷で、
誰を疑えばいいのか。
『魔術の殺人』アガサ・クリスティー

書評

魔術の殺人

少年更生施設併設の旧家ストーンゲイツでマープルが見抜く「ミラーズ・トリック」

魔術の殺人 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1952年 · 邦訳 2003年
目次

少女時代の旧友から届いた「妹のキャリイ・ルイーズが心配なの」という一通の便りが、物語の口火を切ります。名探偵ミス・マープルが招かれるのは、ヴィクトリア朝の重厚な大邸宅ストーンゲイツ。

アガサ・クリスティーがマープルもの第5作で選んだのは、旧家の屋敷と福祉の理想が奇妙に同居する、どこか座り心地の悪い場所でした。

『魔術の殺人』の原題は「They Do It with Mirrors」。マジシャンの手管を指す英語の俗な言い回しで、邦題の「魔術」もここに由来します。

英米の雑誌に連載された形を経て、1952年に一冊の長編として世に出ました。米国では『Murder with Mirrors』の題でも知られてきた作品です。

クリスティーが書き継いだマープルものは全12作。本作はそのちょうど中ほど、シリーズを順に追う読者にとっては折り返しにあたる一冊です。

穏やかな物腰の奥で人間の底をひやりと見透かす老淑女——そのマープル像は、この頃にはすっかり手練れの域に達しています。派手な事件で幕を開けるより、屋敷に流れる空気そのもので読ませていく後期の落ち着いた筆致が、ここではよく効いているのです。

物語の入り口

物語の中心にあるのは、キャリイ・ルイーズという女性です。マープルとは少女時代からの間柄で、いまは三度目の結婚を経てストーンゲイツの女主人におさまっている。

穏やかで人を疑うことを知らない性質の彼女を、遠くから見守ってきた旧友は案じていました。その頼みを受けて、マープルは遠路この屋敷を訪ねることになります。

何がどう危ういのか、はっきりとした形はまだ見えないまま——ただ「妹が心配だ」という胸騒ぎだけを携えて。

到着してみると、そこはただの旧家ではありませんでした。広大な敷地には非行少年たちの更生施設が併設され、キャリイ・ルイーズの夫ルイス・セロコールドは、その社会事業に全身全霊を注いでいる。

理想に燃える主人、彼の熱意にどこか巻き込まれている妻、そして屋敷に同居する血縁の入り組んだ人々。善意と打算の見分けがつかないまま同じ食卓を囲む顔ぶれからして、すでに何かがざわついています。

老いたマープルの目には、この家に漂う不穏さがはっきりと映るのです。

そして、その予感はほどなく形を取ります。妄想癖を抱えた一人の少年が、施設長に拳銃を向けて騒ぎを起こすのです。

銃声、混乱、駆け寄る人々。その騒ぎのさなか、屋敷の別の一角では、まったく別の不可解な死が起きていました。

ふたつの出来事は、はたして偶然に同じ時を分け合ったのか。その符合の意味を、マープルだけが静かに問い直しはじめます。

読みどころ

この作品のいちばんの魅力は、舞台そのものが謎の温床になっているところです。 古色蒼然たる屋敷の陰鬱さと、更生施設のもつ福祉的な熱気。

戦後イギリスの、階級と旧家と社会事業がひとつ屋根の下で軋みあう独特の空気が、事件の下地としてじっくり醸成されていきます。誰の善意がどこで歪んでいるのか、それが最後まで判然としない。

この居心地の悪さこそが本作の骨で、犯人当ての興味と同じ強さで「この家庭は本当のところどうなっているのか」という問いが読者を先へ引っ張ります。

もうひとつは、人物の描き分けの確かさです。理想に殉じる夫、その理想の傍らで揺れる妻、屋敷に寄り集まった血縁の面々。

それぞれが過去と思惑を抱えて食卓につき、誰の言葉をどこまで信じてよいのか、読者はずっと宙ぶらりんな心地のまま頁を繰ることになります。マープルはここでも、椅子に腰を落ち着けたまま人の心の機微を手繰り寄せる、あの流儀を崩しません。

名探偵に手綱を預け、老淑女の見立てに身を委ねる愉しみを、後期クリスティーらしい静けさのなかで味わえる一作です。

名探偵の観察と推理にゆっくり身を任せたい読者、そして事件の派手さより人間関係の綾を読みたい読者には、まっすぐ薦められます。逆に、息もつかせぬ展開やアクションを期待して開くと、この屋敷の淀んだ静けさは少し悠長に感じられるかもしれません。

ただ、その緩やかな流れがあればこそ、終盤に立ち上がる見立ての鮮やかさが際立ちます。急いで真相へ突き進むのではなく、屋敷の湿った空気をひと部屋ずつ吸い込むように読み進めるのが、この作品に合った歩幅です。

マープルものを順に読み進めてきた方なら、折り返し地点の一冊として過不足のない読み心地でしょう。

手に取るなら

いま手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、田村隆一訳の一冊です。マープルシリーズ全12作のうちの第5作にあたり、シリーズを頭から通読していく途中に据えるのにちょうどよい位置にあります。

もちろん一冊だけ独立して読んでも支障はありませんが、マープルという探偵の人となりに馴染んでから開くと、彼女の一挙一動がいっそう味わい深く感じられるはずです。前情報を入れずに頁を繰りはじめるほど旨みの増すたぐいの作品ですので、紹介や解説をあまり深追いせず、そのまま屋敷の門をくぐってしまうのが、いちばんおいしい読み方だと思います。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1952
邦訳刊行年
2003
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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