ミステリーとしての読みどころ
大晦日の雪が沼沢地を白く閉ざす夜、一台の車が溝にはまり、その乗り手は明かりを求めて村の教会へ歩いていきます。黄金期英国本格のなかでも、これほど風景そのものから物語が立ち上がる一冊は数えるほどしかありません。
『ナイン・テイラーズ』(1934年)は、ドロシー・L・セイヤーズがピーター・ウィムジィ卿シリーズの第9長編として世に問うた作品で、英語圏では今なおセイヤーズの最高到達点として語り継がれてきた古典です。
著者について
著者ドロシー・L・セイヤーズ(1893〜1957)は、オックスフォード大学で学んだ世代の英国女性作家です。大学を出たのち広告代理店でコピーライターとして働きながら、1923年、デビュー作『誰の死体?』で貴族探偵ピーター・ウィムジィ卿を世に送り出しました。
そのモダンな感覚において紛れもなく黄金時代を代表する書き手であり、ミステリの女王としてクリスティと並び称される存在です。ただ、二人の資質はどこか対照的でもあります。
クリスティが仕掛けの構造で読者と勝負した書き手だとすれば、セイヤーズは「ミステリを文学として書く」ことに賭けた書き手でした。宗教劇の脚本やダンテ『神曲』の英訳にまで筆を伸ばした多面的な教養が、その物語には惜しみなく注ぎ込まれています。
本作は、その志向が最も完成形に近づいた一冊として位置づけられてきました。
物語の舞台は、東部イングランドの平坦な沼沢地に抱かれたフェンチャーチ・セント・ポール村。見わたすかぎり空と水と草の広がるフェン地方の、時間の止まったような一角です。
年の変わり目、村の教会では徹夜で新年の祝鐘を鳴らす習わしがあります。ところがその大切な晩に、打ち手の一人が流感で倒れてしまう。
図らずも雪に阻まれて村へ足止めされていたウィムジィ卿が、急遽その穴を埋めることになります。塔の上で幾時間も鳴り続ける鐘の音とともに、長い冬の一夜が明けていく——ここまでが、物語のゆったりとした序奏です。
やがて時が流れ、村がすっかり日常を取り戻したころ、数か月後のことです。病がちだった赤屋敷の当主が世を去ります。
故人の望みは、亡妻と同じ墓に葬られること。その願いのままに墓が掘り返されたとき、あろうことか土のなかから、見知らぬもう一体の遺骸が現れます。
身元もわからず、事情もわからない。誰なのか、なぜそこに眠っていたのか、村の誰ひとり見当がつかない。
この奇怪な発見をきっかけに、ふたたびピーター卿の出馬が要請されることになります。物語の背後には、数十年前にこの地方を騒がせた宝石窃盗事件の記憶が、村人たちのあいだにまだ生々しく残っている。
当時の噂も、そのあとに続いた顛末も、この静かな土地の底に消えきらずに沈んでいるのです。静かな村の日常と、そこに沈んでいた過去とが、少しずつ地表へせり上がってくるのです。
読者はこの物語を、事件の外側からながめるのではなく、村の一員として鐘楼の下に立たされるような近さで読み進めることになります。
読みどころ
本作の独創は、英国村落の鐘鳴り文化「チェンジ・リンギング」を、そのまま物語の骨格に据えたところにあります。 複数の打ち手が数学的な順列の規則にしたがって、何時間にもわたり鐘を鳴らし続ける——英国独特のこの儀礼が、章から章へと物語の底を流れ続けます。
各章の扉には鐘鳴りの技法書からの引用が掲げられ、鐘の運動と物語の進行がたがいに呼応する凝った造りです。純粋な犯人当てとしての切れ味以上に本作が差し出すのは、広大なフェン地方の風景、教会と共同体が背負う歴史の重み、戦争の記憶を宿した人々の姿が、幾層にも積み重なっていく重厚な読書体験です。
同時代の批評家からは「鐘の技術描写が長すぎる」という声も上がったほどですが、その厚みこそが、村と教会と数百年の時間を一冊のなかへ封じ込める仕掛けとして働いています。読み終えたあとに残るのは、事件の解決の鮮やかさだけではなく、この土地そのものを旅してきたような感触です。
一方で、テンポよく事件が転がっていく現代的なスリラーを求める読者には、この歩みはゆっくりに映るかもしれません。本作の醍醐味は、謎の周囲に流れる時間そのものを味わうところにあるからです。
じっくり腰を据えて読む冬の夜にこそ似合う長編で、せわしなく先を急ぎたい気分の日には合いにくいでしょう。逆に、クリスティ系の整然とした論理本格を読みつくし、黄金期英国本格のもう一つの極——土地と文化に根ざしたミステリ——を知りたい読者には、これ以上ない定番と言えます。
手に取るなら
現在手に取るなら、創元推理文庫の浅羽莢子訳(1998年邦訳)です。ピーター・ウィムジィ卿シリーズの第9長編にあたり、江戸川乱歩が選んだベスト10にも名を連ねた、1930年代英国が産んだ最高の探偵小説とうたわれる一作。
同じシリーズには『五匹の赤い鰊』『学寮祭の夜』などもあり、そちらへ読み進めていく足がかりにもなります。セイヤーズという書き手の奥行きへ分け入る入り口としても、本作はいまも変わらず長く読み継がれてきた確かな一冊です。