ミステリーとしての読みどころ
看護婦を育てるための場所で、人が死ぬ。しかも、看護の技術を実演してみせる、まさにその最中に。
P・D・ジェイムズ『ナイチンゲールの屍衣』は、命を救う術を学ぶはずの施設が死の舞台へと反転する、その不穏な一点から動き出す英国ミステリです。捜査にあたるのは、詩人でもある警視アダム・ダルグリッシュ。
閉ざされた施設の内側へと、彼は静かに分け入っていきます。
著者について
作者のP・D・ジェイムズは、英国犯罪小説の文学的継承者としてしばしば語られてきた名手です。謎解きの技巧に留まらず、人物の陰影や場所の空気そのものを一篇の小説として濃密に描き込む——その筆致こそが、犯罪小説を文学の高みへ引き上げた書き手と評される所以でしょう。
本作は原書が1971年に刊行され、その年のCWAシルバー・ダガー賞を受賞しました。詩人であり警視でもあるアダム・ダルグリッシュを主人公に据えたシリーズの中でも、初期の代表作に数えられる一冊です。
限られた登場人物と、逃げ場のない濃密な舞台。ジェイムズという書き手の持ち味が、まっすぐに立ち上がってくる作品と言っていいでしょう。
物語の舞台は、看護婦養成所ナイチンゲール・ハウス。ここで学生たちは、いずれ患者の命を預かる身になるべく、日々の実習に励んでいます。
その一環として行われたのが、胃に栄養剤を送りこむ処置の実演でした。患者役を務めるのは、一人の看護学生。
教える者と学ぶ者が見守るなか、手順は淡々と進んでいくはずでした。ところが、その実習訓練のさなか、患者役の学生が突然苦しみだし、そのまま息絶えてしまうのです。
人を救うための技術を教える場が、一瞬にして人の死ぬ現場へと変わってしまう。この立ち上がりの反転が、まず読者の胸をざわつかせます。
そして、悲劇はそれ一度きりでは終わりません。数日を経て、今度は別の看護学生が、毒入りのウイスキーを飲んで変死を遂げるのです。
二人目の死。閉ざされた養成所の空気は、いよいよ息苦しいほどに張りつめていきます。
ナイチンゲール・ハウスという建物のなかで、いったい何が起きているのか。
この事態に向き合うべく施設へ足を踏み入れるのが、警視アダム・ダルグリッシュです。彼を待ち受けているのは、養成所という閉じた世界に暮らす、限られた顔ぶれ。
誰もが顔見知りで、誰もが互いの日常を知っている——そんな濃密な人間関係が、建物の壁の内側にびっしりと張りめぐらされています。ダルグリッシュは、その一つひとつを丁寧に解きほぐしていくほかありません。
詩人でもある彼のまなざしは、事実を追う警察官の目であると同時に、人の心の襞を見つめる観察者の目でもあります。読者はその凜とした警視のかたわらに立ち、彼が施設の人々と交わす会話の呼吸を、同じ距離から見守ることになります。
逃げ場のない舞台で、限られた人々のあいだに静かに沈んでいく緊張。表向きは穏やかに続く養成所の日常の下で、何かが確かに軋みはじめている——その気配のなかに、いつしか深く引き込まれているはずです。
読みどころ
読みどころは、事件を追う手つきそのものが、そのまま人間を見つめる営みになっているところにあります。 ジェイムズは、閉ざされた施設に生きる人々の表情や、言葉の裏にある感情を、一人ずつ克明に描き込んでいきます。
捜査が進むほど、養成所という小さな世界の輪郭が濃くなり、そこに暮らす人々の像が立体的に浮かび上がってくる。事件を追うことが、そのまま人と場所を見つめることにつながっていく——この重なりこそが、ジェイムズの犯罪小説が「文学的」と呼ばれる理由でしょう。
限られた登場人物と一つの舞台だけで、これほど濃密な世界を立ち上げてみせる手際は、初期の代表作の名にふさわしいものです。派手な仕掛けに頼らず、人物の陰影と施設の空気だけで最後まで読ませきる。
その静かな筆力が、本作の忘れがたい読み味を作っています。
こんな人におすすめ
相性でいえば、一撃の大トリックや息もつかせぬ急展開を求める読者には、この歩みはやや重厚に映るかもしれません。本作の愉しみは、めまぐるしい見せ場ではなく、閉ざされた場所と人をじっくり描き込む筆致の側にあります。
事件そのものだけでなく、登場人物の内面や施設に漂う空気ごと味わいたい読者、重みのある英国犯罪小説をゆっくり読み込みたい読者にこそ、深く応えてくれる一冊です。凜とした探偵が閉ざされた世界を静かに歩く、その重厚な足取りを味わえる読者にとっては、忘れがたい一冊になるはずです。
文学の香りをまとった本格ミステリを探しているなら、迷わず手に取ってよいでしょう。
手に取るなら
現在の版はハヤカワ・ミステリ文庫。邦訳の初出は1975年で、半世紀を経てなお読み継がれてきた一冊です。
詩人警視アダム・ダルグリッシュのシリーズは初期のこの作品からでも十分に楽しめますし、その静かな筆致が肌に合えば、彼の登場する他の物語へ手を伸ばす楽しみも待っています。閉ざされた養成所のなかに響く、限られた人々の息づかい。
その重厚な余韻は、読み終えたあとも長く残るはずです。