黄金期英国古典 1947
名探偵は引退を前に、
十二の事件を選び抜いた。
『ヘラクレスの冒険』アガサ・クリスティー

書評

ヘラクレスの冒険

引退を前にしたポアロが、名の由来たる英雄の十二の功業になぞらえて選ぶ最後の事件簿。

ヘラクレスの冒険 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1947年 · 邦訳 2004年
目次

名探偵が、自分の名前に導かれて事件を選ぶ——そんな趣向から幕を開ける連作短編集です。エルキュール・ポアロという名は、ギリシア神話の英雄ヘラクレスに通じています。

私立探偵としての引退を心に決めたポアロは、その符合にふと思い至り、幕引きにふさわしい仕事を、神話に伝わる十二の功業になぞらえて選び抜こうと考えます。灰色の脳細胞が挑む、いわば「最後の事件簿」。

ひとつの主題のもとに十二の謎が連なるという、短編集としては珍しい設計の一冊です。名探偵の引き際を、これほど洒落た趣向で飾った作品もそう多くはありません。

アガサ・クリスティーが本書を世に送り出したのは、1947年のこと。長編で幾度も読者を欺いてきた作家が、中期にさしかかった時期に手がけた短編集です。

長編で見せる大がかりな企みとはまた別に、限られた枚数のなかで一話ごとに趣向を変え、手際よく謎を畳んでみせる——短編には短編の腕の見せどころがあります。息の長い一冊を通して仕掛けを張り巡らせるのとは違い、短い物語では、発端の切り出し方から結びまでの呼吸が問われます。

読者を素早く引き込み、無駄なく決着へ運ぶ。その速さと切れ味こそ、短編を書く手練れの証にほかなりません。

本書は、その意味でもクリスティーの短編集のなかでとりわけ変化に富んだ一冊として知られてきました。

物語の入り口

物語の枠組みそのものが、まず読者をとらえます。引退をひかえたポアロが、これから引き受ける事件を、自分の名の由来である英雄の十二の功業に対応させて選ぶ。

こうして幕を開けるのが「ネメアのライオン」であり、そこから神話の道行きをなぞるように、ひとつ、またひとつと事件が積み上がっていきます。「レルネーのヒドラ」を経て、行き着く先は「ケルベロスの捕獲」。

神話における十二の功業が、そのまま十二の物語の見取り図になっているのです。ポアロがみずから課したこの縛りは、一見すると気まぐれな探偵の道楽のようでいて、読み進めるほどに一冊を貫く芯として効いてきます。

次はどの功業になぞらえた事件が現れるのか——その期待が、頁をめくる手を先へ先へと運んでいきます。

読者はここで、少し変わった位置に立たされます。ふつうの事件簿なら、探偵は持ち込まれた依頼を順に片づけていくだけ。

ところが本書のポアロは、神話の功業という枠に自ら合う事件を「選んで」います。だから一編ごとに、目の前の出来事が英雄のどの功業に対応するのか、その見立ての妙にも自然と目がいく。

謎そのものを追う楽しみに、神話という下敷きを重ね見る楽しみが加わります。各編がどんな謎を差し出し、どう決着するのかは、実際に頁をめくってからのお楽しみ。

まずは、この趣向そのものの面白さに心惹かれます。

読みどころ

本書の妙味は、十二という数と神話の主題が、ばらばらの短編を一冊の作品へとまとめ上げているところにあります。 短編集はともすると玉石の寄せ集めになりがちですが、本書には貫く背骨があります。

英雄の功業を順になぞるという約束事が全体を束ね、一話ごとに趣向を変えながらも、読み進めるほどに「最後の事件簿」という大きな流れが立ち上がってくる。粒ぞろいの謎解きを楽しみつつ、連作ならではのまとまりも味わえる、二重の作りになっています。

神話という古い物語を器に借りたことで、それぞれの事件には、ただの謎解き以上の彩りが添えられました。英雄が怪物や難題に立ち向かった逸話を思い浮かべながら読めば、ポアロの推理がまた一味違って見えてくるはずです。

神話という古典を器に借りたこの趣向は、クリスティーの数ある短編集のなかでも、とりわけ際立った個性を放っています。

名探偵の推理を一話ずつ手軽に味わいたい読者に、本書はよく合います。長編のように腰を据えずとも、区切りのよいところで一編ずつ読み進められるのは、短編集ならではの美点です。

それでいて全体を貫く主題があるため、ばらばらな寄せ集めを読んでいる物足りなさはありません。すでにポアロの長編を何冊か読んできた人にとっては、名探偵の別の顔をのぞく機会にもなるでしょう。

逆に、一冊を通した大きな謎にじっくり没入したい向きには、長編のほうが性に合うかもしれません。ポアロという探偵の懐の広さ、その手際のよさを、変化に富んだ十二の趣向で味わいたいときにこそ、開きたい一冊です。

手に取るなら

手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫が現行版です。全編が新訳で収録されており、変わらぬポアロの名推理ぶりを読みやすい訳文で楽しめます。

クリスティーの数ある短編集のなかでも、ひとつの主題のもとに事件を束ねるという趣向は際立って個性的。名探偵ものの短編を求める読者にとって、確かな手応えのある選択となるはずです。

一冊まるごと読み通してもよし、気に入った功業から拾い読みするのもまた一興でしょう。まずは「ネメアのライオン」の扉を開けて、英雄の十二の功業にポアロがどう挑むのか、その道行きに付き合ってみてください。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1947
邦訳刊行年
2004
ISBN-13
9784151300608
系譜
黄金期英国古典 / 連作短編 · 名探偵もの

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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