ミステリーとしての読みどころ
団子のように丸く、どこか間の抜けた顔。小柄で不器用、とても頭が切れるようには見えないカトリックの田舎神父が、ぽつりと真相を口にした瞬間、目の前の風景が一変する——G・K・チェスタトンが1911年に世へ送り出した『ブラウン神父の童心』は、探偵小説にまったく新しい型の名探偵を持ち込んだ短編集です。
著者について
著者のG・K・チェスタトン(1874〜1936)は、逆説と諧謔の大家として知られた英国の文人でした。ジャーナリストとして筆のキャリアを始め、やがて作家となり評論家となり、宗教思想から幻想小説までを軽々と横断していった人物です。
長編『木曜の男』に代表される独特の幻想性で、今なお熱狂的な読者を抱え続けています。そのチェスタトンが生み出したブラウン神父の短編は、コナン・ドイルの作品と並んで後世の作家たちに計り知れない影響を与えた、とくり返し語られてきました。
本書はそのシリーズの記念すべき第一集。以後も長く書き継がれていく連作の、すべての出発点にあたる一冊です。
逆説と信仰と人間理解——後続で深められていく主題の原型が、この最初の一冊にすでにくっきりと立ち上がっています。
物語の主役は、名探偵とはおよそ見えない一人の神父です。小柄で不器用、団子のように丸く間の抜けた顔をして、頭が切れるとはとても思えない風貌。
ところが、この冴えない神父がひとこと真相を口にすると、世界の風景はがらりと変わってしまう。奇想天外なトリックと、痛烈な諷刺とユーモアを織り交ぜながら、全12編がそれぞれ独立した謎を差し出していきます。
収められているのは、ブラウン神父が初めて姿を見せる「青い十字架」を筆頭に、大胆なトリックで知られる「見えない男」、あまりに有名な警句とともに読み継がれてきた「折れた剣」など、粒ぞろいの短編たち。ほかにも「秘密の庭」「奇妙な足音」「飛ぶ星」と、いずれ劣らぬ趣向の作品が並びます。
一編を読み終えるたびに、鮮やかな逆転がひとつ手渡される——その小さな驚きの連続こそが、この短編集の呼吸です。長編のようにひと晩をまるごと明け渡す必要はありません。
ページを開けば、ものの数十分で目の前の世界がひっくり返る。
ここで効いてくるのが、ブラウン神父という探偵の特異さです。ホームズのように超人的な観察眼で武装するのではなく、告解室で人間の弱さや愚かさに向き合いつづけた経験と、逆説的な思考だけを頼りに、彼は真相へたどり着く。
足音を消すように事件の渦中へ現れ、誰も気に留めなかった一点を、静かに指し示す。派手な推理の身振りはありません。
それでいて、読者が「そこにあったのに、なぜか見えていなかったもの」に気づかされる瞬間の鮮烈さは、並の探偵譚では味わえないものです。読者はこの冴えない神父の隣に立ち、彼が見ているものが自分にはまるで見えていなかったことに、毎回そっと気づかされていきます。
その落差こそが、ブラウン神父を読む醍醐味です。
読みどころ
読みどころは、「心理的盲点」を突く謎解きという、もうひとつの探偵像そのものにあります。 物理的な施錠や機械仕掛けではなく、「見えていたはずなのに、なぜ誰も見なかったのか」という人の思い込みを、謎の核に据える。
ポー以来つづく探偵小説の系譜のなかで、ホームズ型の超人的な観察とはまったく別の水路を切り開いたわけです。この発想は後の探偵小説へ脈々と受け継がれ、20世紀を通じて数多くの後継者を生みました。
チェスタトンへの敬意は、ボルヘスをはじめとする文学者たちからも寄せられており、単なる古典短編集の枠には収まりきらない読まれ方をしてきた一冊です。読み解くのが物理ではなく人間の心である以上、時代が変わっても古びない——それがこのシリーズの、いちばんの強さでもあります。
一編が短く完結するため、通勤電車のひと区切りや、就寝前のわずかな時間にも入りやすいのが本書の美点です。ホームズを読み終えて「もうひとつの古典的な名探偵」を探している読者には、これ以上ないほど恰好の入り口になるでしょう。
反対に、精密な機械仕掛けの手ごたえを何より求める人には、この神父の飄々とした語り口はいくぶん肩透かしに感じられるかもしれません。それでも、飄々とした軽やかさの奥にひそむ鋭い切れ味は、一編また一編と読み進めるほどに、じわりと効いてきます。
手に取るなら
現在手に取るなら、創元推理文庫の新版(中村保男訳・2017年)が入手しやすく、訳も確かです。中村保男は東京大学文学部英文学科に学んだ英米文学翻訳家で、翻訳論の著作でも知られた人でした。
巻末には戸川安宣による丁寧な解説を収めており、シリーズの見取り図をつかむ助けになります。古典の位置づけを超えて、今読んでも発見の多い一冊として、安心して薦められる版です。
逆説と諧謔でミステリ史に燦然と輝くシリーズ、その第一集。名探偵の系譜にもうひとつの原点を書き加えるうえで、まず開いておきたい一冊です。