ミステリーとしての読みどころ
社交クラブの窓辺に、二十年ものあいだ、毎日きまって七時間半すわり続けている——そんな伝説をまとった老人がいます。表題作「窓辺の老人」が描くのは、この人物をめぐる素っ頓狂な事件。
名探偵アルバート・キャンピオン氏が向き合う謎を七編集めた本書は、長編で親しまれてきた英国黄金期の探偵を、短い尺で気軽に味わえる一冊です。腰を据えて一冊を読み通すのとはまた違う、軽やかな入り口がここにあります。
著者について
著者のマージェリー・アリンガムは、一九〇四年に英国で生まれました。作家としての出発点は、ミステリではなく冒険小説。
推理小説の第一作『The White Cottage Mystery』を世に出したのは、一九二八年のことでした。翌一九二九年に発表した『The Crime at Black Dudley』で、のちに看板となる名探偵アルバート・キャンピオンを初めて登場させます。
以後、『幽霊の死』『判事への花束』といった名作を書き継ぎ、アガサ・クリスティらと並んで「英国四大女流ミステリ作家」の一人に数えられるまでになりました。一九六六年に世を去るまで、キャンピオン氏はその筆の中心にあり続けた探偵です。
長い作家人生のなかで磨かれた手つきが、短い物語のひとつひとつにも通っています。
そのキャンピオンものは長編で広く知られていますが、本書はあえて短い尺に光を当てた趣向です。日本オリジナルで編まれた「キャンピオン氏の事件簿」全三巻、その記念すべき第一巻にあたります。
収めるのは七つの物語と、著者自身の筆によるエッセイ「我が友、キャンピオン氏」。一編ごとに舞台も事件の色合いも切り替わっていくので、ページをめくるたびに、この名探偵が活躍する世界の広さと懐の深さが、少しずつ見えてくる——そんな編み方の一冊です。
幕開けを飾るのは「ボーダーライン事件」。袋小路で起きた不可解な事件の謎に、キャンピオンが正面から挑む一編です。
行き止まりの路地で、いったい何が起きたのか。限られた枚数のなかに黄金期らしい謎の呼吸がぎゅっと畳み込まれていて、短編ならではの緊密さがさっそく味わえます。
続く表題作「窓辺の老人」で読者を待つのは、あの老人。二十年、毎日七時間半、社交クラブの窓辺を離れようとしない。
ただそこにすわっているというだけのことが、いつしか周囲でひとつの伝説に育っている——そんな人物のまわりで、なんとも人を食った事件が持ち上がります。なぜ彼は、そこまでして窓辺にすわり続けるのか。
発端を聞かされただけで、その先が知りたくてたまらなくなる。短編ミステリならではの、つかみの鮮やかさがここにあります。
以降は「懐かしの我が家」「怪盗〈疑問符〉」「未亡人」「行動の意味」「犬の日」の五編。趣向も色合いもさまざまな物語が続いたのち、最後に著者のエッセイが一冊を静かに締めくくります。
ひとつひとつは短くとも、読み手はそのつど新しい謎の入り口に立たされ、キャンピオンの導きで出口までを歩くことになります。腰の重い夜でも一編なら読み切れる——そんな気軽さも、連作短編集ならではの美点でしょう。
読みどころ
短い尺だからこそ、キャンピオンという探偵の"入り口"にちょうどいい一冊です。 分厚い長編を一冊読み通す前に、まずは短編でこの探偵の空気に触れてみる——そんな味わい方に、本書はうってつけ。
『2015本格ミステリ・ベスト10』の海外ランキングで第七位に選ばれた実績が示すとおり、短い物語を集めた一冊でありながら、その読み応えは折り紙つきです。粒ぞろい、という公式の評もけっして誇張ではありません。
そして巻末には、著者自身のエッセイ「我が友、キャンピオン氏」も。この名探偵を生み育てた書き手その人の言葉が読めるのは、なんとも贅沢な締めくくりで、物語を楽しんだあとに読めば、いっそう味わいが増すはずです。
向いているのは、黄金期の名探偵ものが好きで、けれど分厚い一冊にいきなり腰を据えるより、まずは軽く味見をしてみたい、という読者でしょう。短編ならではの切れ味と、事件から事件へと舞台が移り変わっていく変化の楽しさが持ち味です。
逆に、ひとつの大きな事件にじっくり没入し、長い助走のはての解決を堪能したいという人には、七編それぞれが短く畳まれていく分、物足りなさを覚える場面もあるかもしれません。とはいえ、その軽やかさこそが、シリーズへの入り口としての本書の美点でもあります。
手に取るなら
現在手に取るなら、創元推理文庫版(猪俣美江子訳)です。訳者の猪俣美江子は、セイヤーズ『大忙しの蜜月旅行』やブランド『薔薇の輪』、ピーターズ『雪と毒杯』などを手がけてきた英米文学翻訳家。
同じ訳者による《キャンピオン氏の事件簿》は全三巻へと続いていくので、本書で相性がよければ、そのまま第二巻・第三巻へと読み進められるのもうれしいところ。粒ぞろいの七編と一編のエッセイという、無理のない分量も心強いところです。
まずは短編から、アガサ・クリスティらと並ぶ英国四大女流のひとりが生んだ名探偵の世界へ、足を踏み入れてみてください。