傍らには拳銃を握った妻。
ホロー荘の殺人
週末の別荘、プールのそばに倒れた医師と拳銃を握る妻。人物描写に重きを置いた中期ポアロ
日曜の昼、昼食に招かれたエルキュール・ポアロが庭のプールにたどり着くと、そこには絵のように整った光景がありました。水際に倒れた男、その傍らで拳銃を握って立ち尽くす女、周りを取り囲む人々。
ポアロは一瞬、自分をもてなすために仕組まれた悪趣味な余興ではないかと疑います。『ホロー荘の殺人』は、その光景から始まるポアロ中期の長編です。
物語の入り口
舞台は、アンカテル家の当主ヘンリー卿と夫人ルーシーが構える田舎の別荘、ホロー荘。週末の客として、ロンドンのハーレー街で開業する医師ジョン・クリストウと妻ガーダ、彫刻家のヘンリエッタ・サヴァナク、そしてアンカテル家の親戚であるエドワード、ミッジ、デイヴィッドが集まります。
近くに週末用のコテージを持つポアロは、日曜の昼食に招かれていました。約束の時間にプールへ案内されたポアロが目にしたのが、冒頭の光景です。
撃たれて倒れているのはジョン・クリストウ。拳銃を手にして立っているのは妻のガーダ。
あまりに出来すぎた構図を前に、ポアロはこれが本当の事件だと悟るまでに、ほんの数秒を要します。
読みどころ
この作品の読みどころは、謎解きと同じ重さで、集まった人々の心の動きが描かれていることです。 事件が起きるのは物語がかなり進んでからで、それまでの章はホロー荘に向かう人々の側から、それぞれの事情と屈託を積み重ねていきます。
医師として脂の乗ったジョンと、夫の世界についていけない妻ガーダ。芸術家として自立したヘンリエッタ。
旧い家柄の暮らしを守るエドワード。読者は事件の前に、この人たちをよく知ることになります。
そのうえで訪れるプールの場面は、それまでに積み上げた人物像があるからこそ効いてきます。誰もが動機を持ちうる、という状況を、説明ではなく人物描写の厚みで納得させるのが、この作品のやり方です。
ポアロの推理は、物証を並べるというより、その場にいた人々のふるまいの意味を読み解く方向に進みます。派手なトリックや畳みかける展開ではなく、人の心の機微を手がかりにする謎解きが好きな読者に向いた一冊です。
作品の背景
1946年に英国コリンズ・クライム・クラブから刊行されたポアロ長編で、米国では『Murder After Hours』の題で出ました。第二次世界大戦をはさんだ時期の作品で、刊行順では『五匹の子豚』(1942)の次、『満潮に乗って』(1948)の前にあたります。
クリスティー自身は自伝で、この作品にポアロを登場させたことを悔やんでいると書いています。人物描写を主にした小説として構想したため、名探偵の存在が浮いてしまったというのがその理由で、1951年に自ら戯曲化した際にはポアロを外しました。
作者のこの評価とは別に、集まった人々の人間関係を丁寧に描いた中期の一作として、ポアロものの中でも独特の位置を占めています。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房クリスティー文庫の中村妙子訳が入手しやすい一冊です。ポアロの登場は物語の途中からなので、名探偵の活躍を最初から期待するより、週末の別荘に集まる人々の群像劇として読み始めると、この作品の持ち味に入りやすくなります。
刊行順に読み進める場合は『五匹の子豚』のあとに手に取ってください。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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