黄金期国内 1954
双眼鏡が捉えたのは、
断崖から落ちる知人。
『化人幻戯』江戸川乱歩

書評

化人幻戯

熱海の別荘で断崖から男が落ちる。還暦の乱歩が大人向けに書いた最後期の明智もの。

化人幻戯 表紙画像
江戸川乱歩 光文社(光文社文庫(江戸川乱歩全集 第17巻))1954年
目次

切り立った断崖から落ちたあの青年は、はたして殺されたのでしょうか。熱海の別荘に逗留していた夫妻が、その転落を目撃してしまったところから、江戸川乱歩『化人幻戯』は動き出します。

題名は「けにんげんぎ」と読みます。化人とは化生の者、人ならぬものを指す語です。

還暦を迎えた作家が雑誌『宝石』に連載し、大人の読者に向けて明智小五郎を送り出した、最後期の一作にあたります。

物語の入り口

明智小五郎は、1925年の「D坂の殺人事件」で初めて姿を見せた名探偵です。作中の明智は50歳を超えた設定で、それでいて若く見える人物として描かれています。

庄司武彦は、実業家・大河原義明の秘書となった青年です。仕えることになった家の主には、美貌の夫人・由美子がいます。

武彦はその夫人にひかれていました。雇い主の妻に心を寄せる秘書、という据わりの悪い位置に、物語は最初から彼を置いています。

舞台は熱海の別荘へ移ります。大河原夫妻と武彦が逗留していたある日、双眼鏡を覗いていた夫妻が、切り立った断崖から人が転落するのを目撃します。

落ちたのは、別荘に来ていた青年の一人でした。この家には姫田吾郎と村越均という二人の若者が出入りしており、転落したのはそのうちの姫田です。

はたして姫田は殺されたのか。事故なのか、そうではないのか。

答えの出ないまま、やがて、もう一人の青年である村越に、容疑者として目が向けられていきます。

転落した姫田と、疑いを向けられる村越。二人はどちらも大河原家に出入りしていた若者です。

一人は断崖から落ち、もう一人は疑われる側に立たされる。同じ家の門をくぐっていた者どうしが、一つの転落を境に、まるで違う立場へ引き離されていきます。

別荘での逗留というくつろいだ時間に、断崖からの転落という一つの死が割り込んでくる——その取り合わせが、入り口の空気をひやりとしたものにしています。

読みどころ

作者自身がもっとも厳しく採点した作品を、同時代の書き手たちは選んでいました。

乱歩は後年、この作品を容赦なく振り返っています。還暦祝いの席で書くと宣言した手前、また『宝石』と日取りを決めていた手前、これぞという筋が浮かばないまま書き出し、辻褄の合わないところはごまかしながら進めた。

批評されなかったのも無理はない——と。ところが、連載が完結した1955年11月の「探偵小説ベスト3」アンケートでは、乱歩作品を挙げた9人のうち3人がこの作品を選んでいます。

連載を終えたばかりの作品が、数ある乱歩の旧作と並べられて、三票を集めたことになります。翌1956年には第9回日本探偵作家クラブ賞の候補にも挙がりました(同回の受賞は日影丈吉『狐の鶏』)。

作者の自己採点と、同業者の選択とのあいだに開いた距離。その距離を自分の目で測れることが、いまこの作品を読む面白さの一つです。

もうひとつは、明智小五郎の年齢です。50歳を超えながら若く見える名探偵は、「D坂の殺人事件」から30年近い歳月を経た姿です。

初期短編で出会った読者ほど、同じ人物が年輪を重ねて大人の事件に向き合う姿に、長い付き合いの相手と再会するような感慨を覚えるでしょう。逆に、ここで初めて明智に会う読者には、50歳を超えてなお若く見える姿が、この名探偵の第一印象になります。

ただし、作者が自ら認めた弱点を含めて読む作品であることは、先に伝えておくべきでしょう。精緻な設計図を期待して開くと、作者自身の言葉が頭をよぎる箇所があるかもしれません。

それでも、作者が大人の読者に向けて最後にもう一度名探偵を立たせた、その事実の重みは変わりません。

作品の背景

『化人幻戯』は、1954年の『宝石』11月号に第1回が載り、翌1955年の1月号から11月号まで書き継がれた作品です。ほぼ同じ時期の『影男』とあわせ、乱歩が成人向けの小説に明智を出した最後の二作にあたり、これ以後の名探偵は少年探偵団シリーズのなかだけで書かれることになりました。

書いている乱歩自身が還暦で、名探偵もまた年齢を重ねていた、という重なりが、この作品の書誌を少し特別なものにしています。

手に取るなら

現在手に取るなら、光文社文庫『江戸川乱歩全集』第17巻が「海底の魔術師」を併録した690ページの一冊です。単独で読みたい場合は、2015年の春陽堂書店『化人幻戯【リニューアル版】』があり、集英社文庫『明智小五郎事件簿 戦後編II』にも収められています。

断崖の転落が殺人なのかどうか、その問いの行方は、『宝石』に1年をかけて書き継がれた頁のなかで待っています。

江戸川乱歩について

江戸川乱歩は本名を平井太郎といい、1894年に三重県名張で生まれました。早稲田大学で経済を学んだあと、貿易会社勤めや古本屋などの職を転々とし、1923年、雑誌『新青年』に載った「二銭銅貨」で作家になります。

筆名はエドガー・アラン・ポーをもじったものです。1925年の「D坂の殺人事件」で名探偵明智小五郎を登場させ、1936年からは『怪人二十面相』に始まる少年探偵団シリーズで年少の読者もつかみました。

戦後は評論集『幻影城』などで海外の探偵小説を論じ、1947年に探偵作家クラブ(のちの日本推理作家協会)の初代会長に就任します。1954年には還暦を機に江戸川乱歩賞を設け、雑誌『宝石』の編集にも携わって、後に続く書き手の道を整えました。

1965年に没しています。

書誌情報

出版社
光文社 / 光文社文庫(江戸川乱歩全集 第17巻)
刊行年
1954
ISBN-13
9784334738662
系譜
黄金期国内 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
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プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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