黄金期英国古典 1932
事故が三度続いた。
四度目は事故ですまない。
『邪悪の家』アガサ・クリスティー

書評

邪悪の家

コーンウォール海岸の屋敷を舞台に、若い女主人を狙う「事故」を追うポアロの中期長編。

邪悪の家 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1932年 · 邦訳 1959年
目次

休暇のはずでした。海辺のホテルのテラスで、ポアロがなにげなく言葉を交わした若い女性——その彼女が、じつは命を狙われているのかもしれない。

『邪悪の家』は、そんな不穏な出会いから静かに動き出すポアロ長編です。まだ、誰も殺されてはいません。

それでも名探偵は、ひとりの女性を守るために腰を上げる。すでに起きた事件を追うのではなく、これから起きるかもしれない殺人を先回りして防ごうとする——その構えが、物語を最初のページから張りつめた緊張で満たします。

物語の入り口

物語の舞台は、コーンウォール沿岸の保養地セント・ルー。休暇で海辺のホテルに滞在していたポアロと、語り手のアーサー・ヘイスティングスが、テラスでひとりの若い女性と知り合います。

名はマグダラ・バックリー、愛称ニック。彼女は崖の上にぽつんと建つ古い屋敷「エンド・ハウス」の女主人です。

話を交わすうち、ニックは軽い口ぶりで妙なことを打ち明けます。このところ、自分の身のまわりで「ちょっとした事故」が立て続けに起きているのだ、と。

乗っていた車のブレーキが利かなくなった。海沿いの道を歩いていると、大きな岩が頭のすぐ脇をかすめて落ちてきた。

寝ているベッドの上に、壁の絵が外れて落ちてきたこともある——本人は運の悪さのように笑って語りますが、聞いているこちらは笑えません。そして、その会話のさなかに、一発の銃弾が飛ぶ。

ニックの帽子に残された弾痕を目にしたポアロは、これは偶然の連なりではないと見て取ります。まだ起きていない殺人の輪郭が、事故という形で先に姿を現している。

危険を察した名探偵は、彼女を守るべくエンド・ハウスへと乗り込み、まだ犯されていない殺人の謎を追いはじめるのです。ここに、ロンドン警視庁のジャップ警部も加わって、中期ポアロらしい布陣が整います。

読みどころのひとつは、シリーズおなじみの顔ぶれが気持ちよくそろっている点です。前作『青列車の秘密』ではヘイスティングスが姿を見せませんでしたが、本作では語り手として彼が戻ってきて、ポアロとの軽妙な掛け合いも復活します。

そこへジャップ警部が加われば、定番トリオのできあがり。円熟したコンビネーションで進む安定感のあるポアロ長編として、安心して手に取れます。

名探偵と語り手、そして警察官という役割のそろったチームが動きはじめると、それだけで物語が居心地のよいリズムを取り戻すのが分かります。

読みどころ

もうひとつの魅力は、事件を包む黄金期英国の空気そのものです。 海辺のホテル、テラスでのお茶、屋敷のディナー、地元の医者や近隣の人々とのなにげない会話。

そうした社交の場面を丹念に描きながら、屋敷をめぐる人間関係のなかから手がかりが少しずつ拾い上げられていく。この作法は、いかにもクリスティらしい味わいです。

長く読み継がれ、後年にはテレビシリーズ〈名探偵ポワロ〉でデイヴィッド・スーシェがポアロを演じるなど、繰り返し映像化されてきた事実も、この物語が持つ間口の広さを物語っています。

名探偵の推理に身を委ねる古典的な謎解きを、海辺の保養地というくつろいだ舞台で味わいたい読者に、本書はよく似合います。ポアロの代表作をひととおり読み終えて、シリーズを順に追っていきたい方にも格好の一冊。

逆に、張りつめたサスペンスや陰惨な事件の重さを求めて開くと、この作品のどこか優雅で穏やかな手ざわりは、少し軽く感じられるかもしれません。けれども、その軽やかさこそが黄金期クリスティの持ち味であり、休暇の空気のなかで謎解きを楽しむ贅沢は、本書ならではのものです。

作品の背景

本書はポアロが登場する七作目の長編にあたり、クリスティーがようやく「作家であること」を自分の職業として受け入れはじめた、多作な時期の入り口に書かれた一作です。ポアロ長編としては『アクロイド殺し』(1926)『ビッグ4』(1927)『青列車の秘密』(1928)を経たのちの作品。

刊行は1932年2月に米国 Dodd, Mead 社から、同年3月に英国 Collins Crime Club からでした。原題は『Peril at End House』。

クリスティが得意とした手管をあれこれと詰め込んだ一編で、当時の『ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー』は「diabolically clever(悪魔的に巧妙)」と評しています。のちにクリスティ研究家ジョン・カランが「クリスティの長編ベスト10」のひとつに数えたことでも知られる作品です。

手に取るなら

いま手に取るなら、早川書房クリスティー文庫の真崎義博訳が現行流通しており、紙の本でも電子書籍でも読めます(かつては田村隆一訳の旧版も親しまれていました)。海辺の屋敷とコーンウォールの風を感じながら、ジャップ警部まで顔をそろえた中期ポアロを楽しみたい——そんな一夜にふさわしい一冊です。

派手な仕掛けを声高に誇るのではなく、社交と会話の積み重ねのなかから静かに謎を立ち上げていく。その落ち着いた語り口こそ、黄金期クリスティを読む醍醐味だと言えます。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1932
邦訳刊行年
1959
ISBN-13
9784151310065
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

アガサ・クリスティーをもっと読む

全作品一覧へ →

似た読み味を、他の作家で

気分タグ・系譜の重なりから自動抽出。★は管理人が実読して太鼓判を押した本

この本が登場する特集

この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

プロフィールを見る →