一番固いアリバイ。
エッジウェア卿の死
米国人女優が夫との離婚を望むやいなや夫が殺害される、社交界を舞台にしたポアロ長編。
夫との離婚を望む妻が、その解決をポアロに頼み込んだ矢先、当の夫が書斎で息絶えている——。華やかなロンドン社交界を舞台に、これ以上ないほど都合よく一人の容疑者が浮かぶ。
ところが、その容疑もまた同じくらい鮮やかに宙へ浮いてしまう。アガサ・クリスティーの『エッジウェア卿の死』は、名探偵と読者を同時に足止めする、周到に組み上げられたフーダニットです。
物語の入り口
本書は名探偵ポアロが活躍する長編で、相棒のヘイスティングス、そして捜査に加わるジャップ警部という、シリーズでお馴染みのトリオが顔をそろえます。物語の入り口は、ロンドンの劇場です。
その夜の舞台に立つのは、物まね芸を得意とする米国出身の女優カーロッタ・アダムズ。人物の声や仕草を巧みに写し取る彼女の一人芝居を、観客にまじってポアロも楽しんでいます。
華やかで、どこかざわめきに満ちた社交の夜。終演後、そのポアロに声をかけてきたのが、当代きってのスター女優ジェーン・ウィルキンソンでした。
彼女もまた米国の出身で、いまは英国貴族エッジウェア卿の妻という立場にあります。ジェーンがポアロに持ちかけたのは、いささか穏やかならぬ相談でした。
別の男性との再婚を望んでいるのに、夫の卿がどうしても離婚に応じてくれない。なんとか説得してもらえないだろうか、というのです。
名探偵に舞い込む依頼としては、ずいぶん私的で、少しばかり不穏な色を帯びています。ところが翌朝、事態は一変します。
ジャップ警部からポアロのもとに、エッジウェア卿が自宅の書斎で刺殺体となって発見された、という報せが届くのです。前夜、まさにその夫を厄介払いしたいと公言していた女優。
動機も、口にした言葉も、これ以上なく揃っている——かに見えて、捜査はたちまち壁にぶつかります。事件のあった時刻、ジェーンは離れた場所での夕食の席に着いていた、という証言がいくつも上がってくるのです。
しかも、卿の側にはすでに離婚を受け入れる意向があったことまで明らかになり、彼女がいまさら夫の死を望む理由そのものが消えてしまう。最も疑わしい人物が、揺るがないアリバイと消えた動機とに守られている。
誰もが思い浮かべる答えが、最初の一歩で封じられてしまうわけです。この行き止まりから、ポアロの本当の仕事が始まります。
読みどころ
読みどころは、ロンドン社交界の華やかな顔ぶれと、ポアロが積み上げていく証言の地味な手ざわりとの対比にあります。 人気女優、英国貴族、大西洋の向こうからやってきた富裕層、舞台の住人たち。
表の顔と裏の顔を使い分ける人々のあいだを、ポアロは言葉と仕草のわずかなずれを拾いながら歩いていきます。派手な立ち回りはありません。
交わされる会話をていねいに聞き、誰が何をどう語ったかを突き合わせていく、静かな捜査です。その一歩一歩の運びの妙は、刊行当時の書評でも「ingenious(巧妙)」と評されました。
この物語には、はっきりとした下敷きがあります。クリスティーは自伝のなかで、米国の女性独演劇作家ルース・ドレイパーの公演を観たことを、本書の発端として挙げています。
ひとりで幾人もの人物を巧みに演じ分けるその独演に感嘆したことが、社交界に生きる登場人物たちの造形へとつながっていった。舞台で得た着想が、黄金期らしい華やかな群像へと結晶しています。
名探偵の推理に身をあずける愉しみを、まっすぐ味わいたい読者に本書は応えてくれます。派手な暴力や血なまぐささよりも、証言と観察を丹念に重ねた先に真相が立ち上がる、黄金期英国本格の王道と呼べる一冊。
逆に、めまぐるしい展開や現代的なスピード感を求めて開くと、社交界の会話をじっくり追う序盤はいくらかゆったりと感じられるかもしれません。その落ち着いた足取りごと楽しめる読者にこそ、長く寄り添う物語です。
作品の背景
英国では1933年9月に Collins Crime Club から刊行され、同じ年に米国では Dodd, Mead 社から『Thirteen at Dinner(十三人の晩餐)』という別題で世に出ました。クリスティーはこの長編の多くを、考古学者の夫マックス・マローワンによるニムルドの発掘に同行しながら書き進めたと伝えられています。
砂の匂う遠い発掘現場で、華やかなロンドン社交界の物語が形をとっていった。そんな取り合わせも、本書にまつわる小さな逸話のひとつでしょう。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房クリスティー文庫の福島正実訳が読みやすく、紙の書籍でも電子書籍でも容易に入手できます。耳で味わう Audible 版も用意されています。
刊行後ほどなく映画化もされた、クリスティー中期を代表するポアロ長編。ヘイスティングス・ジャップも勢ぞろいするその妙味を、ロンドン社交界の華やぎとともに堪能できる一冊です。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
アガサ・クリスティーをもっと読む
全作品一覧へ →似た読み味を、他の作家で
気分タグ・系譜の重なりから自動抽出。★は管理人が実読して太鼓判を押した本