黄金期英国古典 1936
怯えていた夫人の、
怯えは正しかった。
『メソポタミヤの殺人』アガサ・クリスティー

書評

メソポタミヤの殺人

舞台はイラクの考古学発掘現場。クリスティ自身の中東体験が反映された異色のポアロ長編。

メソポタミヤの殺人 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1936年 · 邦訳 1957年
目次

黄金期英国本格の舞台といえば、田舎の館、豪華客船、走る列車——そんな見取り図の、はるか外側にこの一作は立っています。砂ぼこりと土器の破片に埋もれた、イラクの考古学発掘現場。

閉ざされた共同生活が営まれるその場所へ、名探偵エルキュール・ポアロが足を踏み入れる、シリーズ屈指の異色作です。

物語の入り口

物語の語り手は、雇われたばかりの英国人看護師エイミー・レザランです。彼女はイラク北部、ハッサニエ近郊の発掘現場へと赴きます。

依頼したのは、この発掘隊を率いるレイドナー博士。「夫人の様子がこのところ落ち着かないので、付き添ってほしい」——博士の妻ルイーズの世話を任されて、エイミーは砂漠のただなかの発掘ハウスに身を置くことになります。

隊長のレイドナー博士、その夫人ルイーズ、幾人もの考古学者や助手たち。街から遠く隔てられた発掘地で、限られた顔ぶれが寄り添うように暮らしています。

土器の破片に囲まれた仕事場、日々の発掘の手順、考古学者たちが交わすささやかなやりとり——砂漠のなかの小さな共同体には、外の世界とは切り離された、独特のこもった時間が流れています。ところが、患者であるはずのルイーズの怯えようは、どうにも尋常ではありません。

奇妙な幻覚を口にし、神経を張りつめさせる夫人。その様子を、看護師という職業人の冷静な目が淡々と写し取っていきます。

発掘隊の人間関係や、ルイーズという女性をめぐる微妙な空気が、エイミーの語りを通して少しずつ読者に伝わってくる。やがて発掘地には、目に見えない不穏な緊張がじわじわと満ちていきます。

そして、この閉ざされた共同生活の場で、ひとつの殺人が起こる。折よく近くを旅していたポアロが、捜査のために呼び寄せられます。

事件の中心にいるのは、あのルイーズです。読者は看護師の肩ごしに、いつのまにかこの狭い世界の内側へと連れ込まれているのです。

読みどころ

この作品のいちばんの見どころは、なんといってもその舞台にあります。 田舎村でも客船でもない、砂漠の発掘ハウスという枠組みそのものが謎解きの器になっている。

閉ざされた場所、数えるほどの容疑者という本格ミステリの骨格は保ちながら、そこに漂う空気だけがまるで違います。異国情緒が物語を包み、その細部の説得力が、数あるポアロ長編のなかで本作を際立たせています。

同じ砂漠を舞台にしても、絵葉書のような通り一遍の風景描写では、この密度は生まれなかったでしょう。作者が実際に日々を過ごした場所だからこそ、発掘ハウスの狭さも、そこにこもる息苦しさも、読者の肌に触れてきます。

ちなみに、被害者となる夫人ルイーズの造形には、作者夫妻を引き合わせた考古学者夫人キャサリン・ウーリーの、激しく気位の高い人柄が影を落としているとも伝えられます。作者が現地で出会った人々が、そのまま物語の登場人物へと姿を変えていったわけです。

慣れ親しんだ英国を遠く離れた地で、ポアロの灰色の脳細胞がどう働くのか。心理の面からも、物の面からも事件を読み解いていく名探偵の手つきを、見慣れぬ土地に置いて眺める楽しみが、ここにはあります。

こんな人におすすめ

異国の情緒に浸りながら本格の謎解きを味わいたい方に、まっすぐ薦められる一冊です。限られた場所と限られた容疑者という、クローズドサークルの端正な骨格を好む読者にも応えてくれます。

看護師の一人称という、少し変わった視点から事件を追ってみたい方にも向いています。逆に、いつもの英国の田舎館やカントリーハウスの、あの馴染んだ手ざわりを求めて開くと、乾いた砂漠の空気に少し戸惑うかもしれません。

けれども、その戸惑いこそが本作の持ち味です。定番の枠を一歩出たところで、シリーズのなかでも独特の風通しを持つ、忘れがたい舞台がここにあります。

作品の背景

原書は一九三六年、英国のコリンズ・クライム・クラブから世に出ました。この作品を語るうえで欠かせないのが、作者自身の生活です。

クリスティは一九三〇年に考古学者マックス・マローワンと再婚し、以後は夫の中東での発掘調査にたびたび同行する日々を送っていました。砂漠の発掘地、土にまみれた仕事場、そこで暮らす人々の息づかい——本作の舞台描写は、観光客の目ではなく、そこで生活した者の目から汲み上げられています。

だからでしょうか、遠い異国の場面であるはずなのに、細部の手ざわりが妙に生々しい。ポアロシリーズ第十四長編にあたる本作は、作者の考古学への関心がそのまま長編に持ち込まれた、最初の例として語られることの多い一冊でもあります。

手に取るなら

いま手に取るなら、早川書房クリスティー文庫の石田善彦訳が入手しやすく、電子書籍のKindle版も用意されているので、気軽に読み始められます。中近東を舞台にしたクリスティ作品の最高傑作とも称される一冊であり、ポアロという名探偵の懐の深さと、シリーズの幅や奥行きを知るうえでも、恰好の入り口になってくれます。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1936
邦訳刊行年
1957
ISBN-13
9784152099235
系譜
黄金期英国古典 / クローズドサークル · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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