ミステリーとしての読みどころ
夜の療養所に、聞き覚えのある声が響きます。「ここから逃げろ。殺人が起こる」——そう告げてきたのが、まぎれもなく自分自身の声だったとしたら。
1936年に発表されたパトリック・クェンティンの『迷走パズル』は、そんな薄気味悪い一撃から始まる、米国黄金期に埋もれていた本格ミステリです。
著者について
まず押さえておきたいのは、「パトリック・クェンティン」が単独の作家ではない、ということ。この名義は、リチャード・ウィルスン・ウェッブとヒュー・キャリンガム・ウィーラーという二人の共作ペンネームです。
ともに英国生まれのこの二人は、同時期に「Q・パトリック」「ジョナサン・ステイジ」といった別名義も使い分けていました。いわば筆名の万華鏡のような書き手たちで、どの名前でどんな顔を見せるかを楽しむように作品を送り出していた印象があります。
そのなかで最も長く書き継がれ、評価も高かったのが、このクェンティン名義のピーター・ダルースを主人公にしたシリーズです。本作はその記念すべき第1作。
ここから始まった連作はやがて全9作(1936-1954)に育ち、うち2作は映画化もされました。いくつもの名前を操った書き手たちが、その最初の代表作でどんな謎を仕掛けたのか——まずはそこから覗いてみましょう。
物語の主人公は、ブロードウェイの演劇プロデューサー、ピーター・ダルース。彼は妻を亡くしたショックからすっかり酒に溺れ、舞台の仕事も手につかなくなり、とうとう療養所へ入院する身となっています。
断酒のために自分の意思で門をくぐった、そのはずでした。ところがある晩、闇の中からあの声が届きます。
「ここから逃げろ。殺人が起こる」。しかもそれは、他ならぬ自分の声。
幻聴なのか、それとも——パニックに陥ったピーターは、疑いと不安のあいだで宙づりになります。この一件を耳にした療養所のレンツ所長は、意外な提案を持ちかけてきます。
少し前から院内では不穏な出来事が続いており、評判にも関わるので内々に調べてほしい、と。探偵役を務めることは社会復帰にとって効果的だ、というのが所長の判断でした。
かくしてピーターは、患者という足場の揺らいだ立場のまま、事件の輪郭を手探りで追いはじめます。安楽椅子探偵でも、警察でもなく、自分自身の心もとなさを抱えた療養者が探偵になる。
当時の米国本格としては、ずいぶん珍しい主人公です。しかも内偵を進めるうちに彼は一人の美女と恋に落ち、やがて降りかかった殺人事件の容疑から彼女を救おうと奔走することになります。
事件の解決と二人の退院とが、切り離せない一つの願いへと重なっていくのです。
読みどころ
この作品の妙味は、療養所という舞台が単なる背景ではなく、謎そのものの土台になっているところにあります。 外界から遮断されたクローズドサークルの息苦しさに加えて、ここには「証言する人々の精神状態を、どこまで信じてよいのか」という不確かさが最初から横たわっています。
事件を語る人物が、そもそも療養のためにここへ来た人々なのです。誰の言葉を信頼の枠に入れ、誰の言葉に留保をつけるか——本格ミステリの根っこにある「証言の信頼性」という問いを、舞台の性格そのものから立ち上げ直しているわけです。
孤島や雪の山荘を舞台にした閉鎖空間ものとは、また違った種類の緊張がここには漂います。読者もまた、探偵役のピーターと同じく足場のはっきりしない場所に立たされ、目の前の証言をどう扱えばよいのか、たえず量りながら読み進めることになります。
歴史の側から見ても、この一冊には掘る価値があります。国内では長らく、雑誌に載った旧訳『癲狂院殺人事件』というかたちでしか触れられない、いわば幻の作品でした。
書籍としての邦訳が初めて登場したのは、東京創元社の創元推理文庫・白須清美訳(2017年)。この新訳をきっかけに、米国黄金期の隠れた本格として再評価が進み、続く『俳優パズル』『悪女パズル』なども順次読めるようになってきました。
長く時間の裾に隠れていた作品が、あらためて光を当てられていく——その掘り起こしの現場に立ち会えるのも、いま読む楽しみの一つでしょう。
こんな人におすすめ
相性で言えば、クリスティ、クイーン、カー、ヴァン・ダインといった黄金期の主役級を一通り味わい、その同じ時代に他では何が書かれていたのかを覗いてみたい——そんな読者にこそ、まっすぐ届く一冊です。有名作家の陰に隠れていた才能を発掘する楽しみが、ここにはあります。
一方で、キャラクターの明快さやスピード感を最優先に求める読者には、療養所を舞台にした薄暗い手触りがやや重く感じられるかもしれません。とはいえ、その独特の空気こそが本作の個性でもあります。
手に取るなら
入手は創元推理文庫の白須清美訳版で。訳者の白須清美は、同じクェンティン名義の『俳優パズル』『人形パズル』『女郎蜘蛛』なども手がけているので、本作が肌に合えば、そのままシリーズを追いかけていく道もひらけています。