ミステリーとしての読みどころ
遅れて届いた一通の手紙が、すべての起点になります。差出人はすでにこの世を去っている——アガサ・クリスティーの『もの言えぬ証人』は、依頼人が不在のまま幕を開ける、ポアロものの中でもひときわ変わった立ち上がりを持つ長編です。
著者について
作者はもはや説明のいらないミステリの女王、アガサ・クリスティー。本書はエルキュール・ポアロが活躍するシリーズの第16長編にあたり、原書は1937年に英国のコリンズ・クライム・クラブから刊行されました(米国題は『Poirot Loses a Client』)。
語り手を務めるのは、シリーズおなじみのアーサー・ヘイスティングス大尉。実はヘイスティングスがポアロもの長編で語り手を担う作品は、はるか後年に書かれた最終作を別にすれば、この一冊がほぼ最後になります。
名探偵と旧友の掛け合いを、腰を落ち着けて味わえる時期の一作と言ってよいでしょう。
物語の中心にいるのは、英国の田舎町にひとり暮らす老婦人エミリー・アランデルです。ある日、彼女は屋敷の階段で転落する事故に遭います。
原因は、飼い犬が階段に置きっぱなしにしていたゴムのボール——というのが、まわりの誰もが下した見立てでした。ところが、時間が経つほどにエミリーの中では別の疑いが濃くなっていきます。
あの転落は、本当にただの不注意だったのか。もしかすると親族の誰かが、自分の命を狙っているのではないか。
募る不安を抱えた彼女は、思いつめた末に一通の手紙を書きます。宛先は、名探偵エルキュール・ポアロ。
しかし、その手紙がポアロの手もとに届いたのは、書かれてから二カ月あまりも経ってからのことでした。そして封を切ったときには、差出人であるエミリーはもう、この世にいなかったのです。
死者からの依頼——ポアロはその奇妙な巡り合わせに強く引っかかりを覚え、ヘイスティングスを連れて田舎町へと向かいます。事件はすでに起きてしまったあと。
現場に生々しい痕跡が残っているわけでもありません。ポアロが頼れるのは、屋敷に出入りしていた親族や使用人、近隣の人々がそれぞれに抱えた、まだら模様の記憶だけです。
エミリーが最後の日々をどんな思いで過ごしていたのか。彼女の不安には根拠があったのか、それとも老いた心が生んだ思い過ごしだったのか。
ポアロは訪ね歩きながら、時間の向こうへ遠ざかっていく出来事を、一つずつ手繰り寄せていきます。そしてその探索に、もう一人、というよりもう一匹、忘れてはならない存在が加わります。
屋敷で飼われているワイヤヘアード・テリア、その名もボブ。題名の「もの言えぬ証人」が指すのは、口をきけないこの犬のことなのです。
本作のいちばんの持ち味は、この「過去をさかのぼる」捜査の呼吸にあります。ポアロが事件の瞬間に居合わせるわけでも、証拠が親切に揃っているわけでもない。
彼はただ、人々の言葉と屋敷に残されたものを丹念に拾い、起きてしまった出来事を後ろ向きに組み立て直していきます。読者は、その再構築の作業にゆっくり付き合いながら、断片が少しずつ像を結んでいく手ざわりを楽しむことになります。
後年の名作『五匹の子豚』(1942)が突き詰める「過ぎ去った事件を語りだけから復元する」という趣向の、いわば軽やかな先触れ。名探偵の思考に身をあずける古典的な愉しみを、田園ののどかな空気ごと味わえる一冊です。
読みどころ
もうひとつ、この作品には犬好きにはたまらない温度があります。 クリスティー自身が無類の犬好きで、本書はなんと、作者の愛犬だったワイヤヘアード・テリア「ピーター」に献げられています。
献辞に添えられた言葉は「a dog in a thousand(千匹に一匹の名犬)」。作中のボブの活き活きとした描きぶりには、その愛情がまっすぐ通っています。
ポアロと犬の距離のとり方には思わず頬がゆるむ場面もあって、端整な謎解きの合間に、ふっと肩の力が抜ける瞬間を用意してくれます。
こんな読者にこそ薦めたい一冊です。派手な事件が目の前で次々起きる展開よりも、静かな田舎屋敷を舞台に、名探偵が過去をゆっくりたぐり寄せていく味わいを好む方。
英国黄金期のクラシックな空気に浸りたい方。そして何より、ミステリのページに犬が寄り添っていることに心が動く方。
逆に、冒頭からスピード感のある事件の連続を期待して開くと、この変則的で落ち着いた立ち上がりは、少しもどかしく感じられるかもしれません。けれども、その緩やかさこそが本作の呼吸であり、じっくり浸るほどに効いてくる持ち味でもあります。
手に取るなら
いま手に取るなら、早川書房クリスティー文庫の加島祥造訳が入手しやすく、Kindle版やAudible版も揃っています。数あるポアロものの中でも、こんなに親密な相棒が加わる作品は多くありません。
過去を再構築するタイプの本格に惹かれる方、英国田園の屋敷ものが好きな方、そして犬とポアロという組み合わせに興味を覚えた方に、ゆったりと開いていただきたい物語です。