自慢した男が殺された。
ひらいたトランプ
4 人の容疑者、4 人の探偵。心理推理に振り切ったクリスティ中期の異色長編。
殺人を芸術品のように語る男が、その言葉のとおり、自分の集めた「作品」たちを一晩の食卓に並べてみせる。『ひらいたトランプ』は、容疑者を四人に、探偵を四人に絞り込んだ、恐ろしく澄んだ盤面から幕を開ける一作です。
手がかりの量ではなく、人の心の読み方だけで犯人に迫れるか——クリスティが自らにそう課した、中期の異色作にあたります。
物語の入り口
物語は、ロンドンの社交界に出入りする蒐集家シャイタナ氏の、思わせぶりな一言から動き出します。珍しいものを集めるのが趣味だと語る彼は、世の中には罪に問われずにいる殺人者が幾人もいて、自分はその何人かを知っている、と匂わせるのです。
殺人という行為すら蒐集の対象にしてみせる、その悪趣味な気配に、ポアロはうっすらとした警戒を覚えます。
やがてシャイタナ氏は、自邸でのささやかなブリッジの会へ、八人の客を招きます。片や、探偵の側の顔ぶれ——エルキュール・ポアロ、スコットランドヤードのバトル警視、政府の任務にあたるレイス大佐、そして推理作家のアリアドニ・オリヴァ夫人。
片や、招かれたもう四人は、いずれも過去に人を殺めた疑いをかけられながら、罪を免れてきたと噂される者たちでした。招待そのものが、主人のたちの悪い遊戯だったわけです。
客たちは二つの部屋に分かれ、カードに興じます。そして、和やかなはずの一夜のさなか、客間の椅子に腰かけたシャイタナ氏が刺殺される。
その場に居合わせたのは、卓を囲んでいた四人だけ。逃げ場のない、これ以上ないほど閉じた容疑者の輪ができあがります。
動機も機会もにわかには判じがたいこの状況で、ポアロが頼れるのは物証の山ではありません。四人それぞれの来歴、卓に残された点数表、そしてゲームのあいだの振る舞いに滲み出る人となり。
カードの手筋が、そのまま人柄の証言になっていく——盤面はこうして、心理だけを武器にした静かな捜査へと差し替わっていきます。動かぬ証拠を積み上げるのではなく、四人の内面のかたちそのものを読み解くこと。
ポアロの関心は、はじめから終いまでそこに注がれています。
読みどころ
この作品の醍醐味は、四人の探偵が四人の容疑者を、めいめいの流儀で見つめていく構図にあります。 警察官の眼、諜報畑の眼、小説家の眼、そしてポアロの眼。
同じ四人を眺めていても、拾い上げるものは一人ひとり違います。読者もまた、どの視点に寄り添うかで盤面の色合いが変わる、その多重の視線を味わうことになります。
容疑者を四人に、探偵を四人に切り詰めたことで、ミステリのフェアプレイという理念が、ほとんど純粋な結晶のかたちで取り出されている——後の書き手たちがたびたびこの一作を参照してきたのも、うなずける話です。
もうひとつの見どころが、ここで初めてポアロの長編に姿を見せる推理作家、オリヴァ夫人の存在です。クリスティ自身を戯画にしたような人物で、作者は彼女の口を借りて、しばしば小説業界への本音を語らせました。
作中には、そのオリヴァ夫人がある小説を執筆中だと言い当てる人物まで登場するのですが、その作中作の題名を、クリスティは後の一九四二年、自作のマープルものにそっくり拝借することになります。遊び心もなかなかのものです。
以後のポアロ長編にも繰り返し呼び戻されていく、忘れがたい相棒役の初登場が本作なのです。
こんな人におすすめ
心理戦に軸を置いた本格を好む読者、容疑者の数をぎりぎりまで削った緊密な構造に惹かれる読者には、まっすぐ薦められる一作です。逆に、血の匂いの濃いスリルや、息もつかせぬ活劇を求めて開くと、この静かな端正さは物足りなく映るかもしれません。
限られた手札だけで真実へ寄せていく思考の緊張——そこにこそ本作の呼吸はあります。実際、ポアロ自身がお気に入りに挙げた事件でありながら、相棒のヘイスティングズにはいささか地味に映ったという逸話まで伝わっていて、好みの分かれ目さえ作品の内側に織り込まれているかのようです。
作品の背景
ポアロが活躍する長編としては第十五作にあたり、原書は一九三六年、英国のコリンズ・クライム・クラブから世に出ました。同じ年に『ABC殺人事件』『メソポタミヤの殺人』が並んでいることからも、この時期のクリスティの筆がどれほど乗っていたかがうかがえます。
本作の性格は、巻頭に置かれた前書きにはっきりとあらわれています。クリスティはそこで、容疑者は四人、犯人はそのうちのひとり、推理は純粋に心理的なものに頼らねばならない、と自ら宣言してみせるのです。
謎解きの条件をあらかじめ手の内にさらしてしまう——原題『Cards on the Table』は、物語の趣向だけでなく、作者のこの潔い構えそのものを言い当てているようにも読めます。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房クリスティー文庫の加島祥造訳が入手しやすく、Kindle版も出ています。舞台や映像へと形を変えながら読み継がれてきた息の長い一作で、初登場を果たしたオリヴァ夫人がその後どんな活躍を見せていくのかへと、読書を広げていく格好の起点にもなります。
四人の容疑者、四人の探偵、そして一枚も伏せないという宣言——潔いほど見通しのよい盤面から立ち上がる心理推理の妙を、じっくりと味わってみてください。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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