次はB。その次はC。
ABC殺人事件
アルファベット順に進む連続殺人。挑戦状型・見立て連続殺人の本格古典。
「ABC」と署名された一通の予告状。次はAの町で、Aの頭文字を持つ者を狙う——名探偵に宛てられたその挑発から、アルファベット順に進む連続殺人が幕を開けます。
予告し、実行し、また予告する。犯人がみずから殺人の順序を公開してみせるこの構図は、のちに「見立て連続殺人」「予告型シリアルキラー」と呼ばれるようになるフォーマットの原型そのものです。
その源流に立つのが、アガサ・クリスティーの『ABC殺人事件』でした。
物語の入り口
探偵はエルキュール・ポアロ。語り手はヘイスティングス、捜査にはスコットランドヤードのジャップ警部も加わる、シリーズおなじみの顔ぶれがそろった長編です。
発端は、ポアロのもとに舞い込んだ奇妙な手紙です。「ABC」と署名されたその文面は、犯行の日付と町の名をあらかじめ予告していました。
そして予告のとおり、アンドーヴァー(Andover)でアッシャー夫人が命を奪われる。Aの町で、Aの頭文字を持つ被害者。
現場には一冊の『ABC鉄道案内』——当時の英国で広く使われていた汎用の時刻表が、ぽつんと残されていました。まるで犯人の署名のように。
それで終わりではありません。まもなく第二の挑戦状が届き、ベクスヒル(Bexhill)でベティ・バーナードが、続いてチャーストン(Churston)でカーマイケル・クラーク卿が。
町と被害者の頭文字をそろえた事件が、Aから、Bから、Cから——アルファベットの階段を一段ずつ上っていくように積み重なります。各現場には決まって『ABC鉄道案内』が置かれ、犯人はポアロを名指しで挑発しつづける。
誇り高き名探偵への、あからさまな挑戦です。
ここで読者が置かれるのは、次に来る文字はわかっているのに、それがどこで、誰の上に落ちるのかまではわからない、という宙づりの位置です。予告状は届く。
順番も見えている。それでも手が届かない。
犯行を重ねるごとに犯人は自信を深め、いっぽうで国じゅうが恐慌状態に陥っていく。公開された規則性そのものが、ページをめくる指を急き立ててきます。
予告のあるサスペンスは、予告のないそれよりもかえって息苦しい。その逆説を、本作は早い時代に鮮やかに掴んでみせました。
読みどころ
本作の勘所は、犯人が「連続殺人」という枠組みを堂々と探偵と読者の前にさらしてみせるところにあります。 手がかりは隠されるのではなく、予告というかたちで先に開示される。
だからこそ、事件の全体像がそろって初めて意味をなす論理の緊張が、最後まで途切れません。フェアプレイの謎解きと、次の一手を待つサスペンスが、無理なく同居しています。
「serial killer」という言葉すら普及していなかった時代に、連続殺人というモチーフを本格ミステリの器で成立させた——その先駆性が、本作を長く語り継がれる位置へ押し上げてきました。挑戦状による探偵への直接の挑発、アルファベットという誰の目にも開かれた見立て、そして事件の全体像がそろって初めて像を結ぶ論理。
本格としての骨格を保ちながら、サスペンスの張りつめた緊張までを併せ持つ構成が、これほど長く読み継がれてきた理由でしょう。後発の小説や、のちの映像作品にいたるまで、このアルファベットの意匠はくり返し受け継がれてきました。
見立て連続殺人ものの多くが、どこかで本作の影を踏んでいるといってよいはずです。
こんな人におすすめ
挑戦状型・予告型の趣向が好きな読者、見立て連続殺人ものの源流を一冊押さえておきたい読者には、まっすぐ薦められます。名探偵の推理に身をゆだねる古典的な愉しみと、犯人が国じゅうを騒がせていくスリルの、その両方を求める夜に向く一作です。
派手なアクションや現代的なざらついた暴力を期待して開くと、この端正で静かな運びは、少し物足りなく映るかもしれません。けれど、整然としているからこそ立ちのぼるこの薄気味悪さこそ、本作の持ち味です。
作品の背景
原書は1936年1月6日、英国のコリンズ・クライム・クラブから世に出ました。この時期のクリスティーはすでに幾多の傑作を積み重ねた全盛期にあり、本作もまた、その代表作群の一角に数えられてきた一冊です。
加えて本作は、クリスティーが敬愛したチャールズ・ディケンズの手法にならい、語りの視点を実験的に操作した作品としても知られています。ヘイスティングスの一人称を主軸に据えながら、章と章のあいだに別人物の視点で語られる短い章が差し挟まれる——このひと工夫が、物語に独特の温度をもたらしています。
どの情報を、どの順序で読者の手に渡すのか。その配分の巧みさに、クリスティーという書き手の腕がよく表れています。
手に取るなら
日本では早川書房クリスティー文庫の堀内静子訳で手に取れます。より新しい田口俊樹訳のジュニア版『名探偵ポアロ ABC殺人事件』(ハヤカワ・ジュニア・ミステリ)もあり、どの入り口からでも読み始められる一冊です。
クリスティー全盛期の代表作のひとつであり、ポアロものから本格寄りの一作を選びたいときに、これほど確かな選択もそうありません。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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