スパイは世界を騙す。
ラスト・ワルツ
舞踏会から特急列車まで、舞台を変えて繰り広げる諜報戦の緊張を楽しむ。
仮面舞踏会、ドイツの映画撮影所、疾走する特急の車内。柳広司『ラスト・ワルツ』は、「ジョーカー・ゲーム」シリーズの第4作にあたる短編集です。
大日本帝国陸軍のなかに極秘裏に設けられたスパイ組織、D機関。その頭脳戦が、舞台を変えながら続いていきます。
文庫には、ロンドンの密室殺人を舞台にした書き下ろし短編「パンドラ」が加わりました。単行本は2015年に角川書店から、文庫は2016年3月に出ています。
物語の入り口
「舞踏会の夜」の主役は、顕子という女性です。華族の出身で、陸軍中将の妻。
アメリカ大使館で開かれる舞踏会に出向いた彼女は、そこである人物を捜しています。誰を、なぜ捜しているのか。
社交の華やかさと、情報をめぐる駆け引きが、同じ会場の同じ時間に重なっています。
軍服の世界と、ドレスと燕尾服の世界。二つが同じ夜に重なるところに、この一編の入り口があります。
中将の妻という立場は、社交の場では顔が知られているということでもあります。人を捜す側が、捜される側にもなりうる。
そのねじれが、舞踏会という舞台の緊張を生みます。舞踏会は、誰もが着飾り、誰もが笑顔で、誰もが誰かと言葉を交わす場です。
そこで人を捜すというのは、笑顔の群れのなかから一つの顔を選び出すことです。華やかであればあるほど、捜す側の緊張は増します。
舞台は、そこからドイツの映画撮影所へ、疾走する特急の車内へと移ります。撮影所は作り物を作る場所で、列車は誰も途中で降りられない場所です。
どちらも、正体を隠して働く者にとっては、独特の条件を持った舞台です。舞台が変わるたびに、任務の形が変わり、使える手が変わります。
一編ごとに、違う条件で同じ流儀を試す。この短編集の楽しみは、その変奏にあります。
そして「パンドラ」。ロンドンでの密室殺人という、スパイ小説より本格ミステリの言葉で語られる題材です。
文庫版のための書き下ろしで、シリーズの器に、密室という古い道具を持ち込みました。密室とスパイ——ふだんは別々の棚に並ぶ二つが、一編のなかで組み合わされます。
読みどころ
読みどころは、舞台が変わるたびに、頭脳戦の条件が組み替わるところにあります。 仮面舞踏会では、誰もが顔を隠しています。
隠すことが前提の場では、隠している者を見つけるのが難しい。映画撮影所では、誰もが役を演じています。
演じることが仕事の場では、演じている者を見分けるのが難しい。特急の車内では、誰も降りられません。
逃げ場のない場で、正体を隠しきるのは難しい。三つの舞台は、それぞれ違う難しさをスパイに課します。
同じ流儀で、違う難しさをどう越えるか。一編ごとに条件が変わるからこそ、流儀そのものの輪郭が、回を重ねるごとにはっきりしてきます。
前の3冊を読んできた人ほど、その輪郭の見え方を楽しめるはずです。
もう一つは、場の華やかさと任務の冷たさの対比です。大使館の舞踏会、映画の撮影所、疾走する特急、ロンドンの密室。
人の集まる、人目を引く場所ばかりが選ばれ、そのただなかで、陸軍のなかに極秘に設けられた組織、D機関の頭脳戦が進みます。着飾った人々の笑顔と、正体を隠して働く者の計算。
その落差が、どの一編にも張りつめた空気を与えています。
舞踏会、撮影所、特急の車内と、話ごとに場所が替わるので、一編ずつ区切って読めます。ただ、一編を読み終えたあと、すぐ次へ進まないほうがいい。
舞台が変わる前に、いま読んだ舞台で何が起きたのかを少し反芻する時間があったほうが、次の一編がよく効きます。
作品の背景
2008年の『ジョーカー・ゲーム』に始まったD機関のシリーズは、『ダブル・ジョーカー』『パラダイス・ロスト』と続き、この本が4冊目です。短編の連作という形は最初から変わらず、一編ごとに舞台と任務が変わっても、D機関の流儀だけは一貫しています。
そのなかで本書は舞台の幅がいちばん広く、社交の場、ドイツの映画撮影所、満州を走る特急列車と、場面はさまざまです。どれも人が集まり、視線が交差する場所で、スパイにとっては隠れやすくもあり、見つかりやすくもあります。
手に取るなら
現行版は角川文庫です。文庫版には、ロンドンでの密室殺人を扱う書き下ろし「パンドラ」が加わっていて、シリーズに密室という本格ミステリの古典的な道具立てが持ち込まれています。
そのぶん、単行本より文庫版を選ぶ理由があります。各編は独立して読めるので途中から入っても構いませんが、前の3冊でD機関の流儀になじんでから読むほうが、この本の変奏はよく効きます。
まず、仮面舞踏会の会場に、顕子と一緒に入ってみてください。
柳広司について
柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。
同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。
初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。
2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。
書誌情報
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