そして被曝を訴えた。
象は忘れない
能の演目の名を借りて、原発事故のあとを生きる人々を描いた五篇。
「道成寺」「黒塚」「卒塔婆小町」「善知鳥」「俊寛」。目次に並ぶのは、能の演目の名ばかりです。
ところが頁を開くと、そこにいるのは古い時代の亡霊ではなく、原子力発電所の事故のあとを生きる、現代の人たちです。柳広司『象は忘れない』は、東日本大震災と福島第一原発の事故を題材にした5篇の連作集で、それぞれの篇が能の演目のパスティーシュになっています。
2016年に文藝春秋から出て、2020年に文春文庫に入りました。
物語の入り口
5篇は、それぞれ別の題材を扱っています。「道成寺」は、原発の安全を疑わなかった作業員の目を通して、電力会社と政府の欺瞞を描く篇。
「黒塚」は、原発事故がなければ助けられたかもしれない命の声を描く篇。「卒塔婆小町」は、福島から避難した母子が東京で感じた差別と違和感。
「善知鳥」は、〈トモダチ作戦〉に従事したロナルド・レーガン号の乗船員たちが、被曝による健康被害を訴えて東京電力に賠償金を求めようとする篇。「俊寛」は、特定避難地域に指定された住民とされなかった住民の格差と現実です。
どの篇も、事故の当事者である電力会社や政府の側からではなく、その決定の結果を引き受けた側から書かれています。作業員は安全を信じて働き、母子は避難先で暮らし、乗船員は海の上で任務についていた。
誰も、あの日に何が起きるかを選べる立場にはいませんでした。
視点は、篇ごとに入れ替わります。発電所で働いていた人、助けられたかもしれなかった人、避難した人、海の向こうから来た人、線のこちら側と向こう側に分けられた人。
事故そのものではなく、事故のあとに置かれた人の位置から、それぞれの篇は書かれています。5つの位置は互いに遠く、同じ出来事を見ているとは思えないほど、見えている景色が違います。
書名は、象は非常に記憶力が良く、自分の身に起きたことは決して忘れない、という英語の諺から取られています。書名には英語の諺を、各篇の題には能の演目を置く。
海を隔てた二つの言葉が、表紙と目次とで向き合っています。忘れない者がいる。
その一言が、5篇を読み終えたあとで、重く響いてきます。
読みどころ
この本の読みどころは、生々しすぎる題材を、能という完成された型を通して見せているところにあります。 事故のあとを正面から書こうとすると、告発か嘆きか、どちらかに傾きがちです。
能の演目という古い器を借りることで、その傾きが抑えられています。型があるから、感情が形を持つ。
型があるから、読む側も目を逸らさずに済む。パスティーシュという手法が、ここでは技巧のためでなく、題材に向き合うために使われています。
探偵は出てきませんし、密室も暗号もありません。それでも、この連作がミステリの棚に置かれているのには理由があります。
一篇ごとに追うのは「何が起きたのか」ではなく「なぜこうなったのか」です。関係者の言い分を突き合わせながら読む、というミステリの作法が、そのままこの本の読み方になります。
五つの題は、いずれも古くからある能の演目の名です。事故から5年の時点で出た本の目次に、古い舞台の名が並んでいる。
目次を開いたときにまず目に入るのは、その時間の隔たりです。隔たりを抱えたまま、5篇は事故のあとの現在を、一篇ずつ別の人の位置から書き進めていきます。
作品の背景
柳広司の仕事を並べてみると、すでにある物語の形を借りて、別のものを立ち上げる試みが何度も顔を出します。漱石を借り、ホームズを借り、八雲の『怪談』を借りてきました。
能の演目を借りたこの連作も、その手つきの延長線上にあります。
違うのは、題材です。これまで借りものの器に注いできたのは、謎解きでした。
ここに注がれているのは、2011年3月11日のあとの日本です。単行本は2016年2月、文藝春秋から240ページで出ました。
事故から5年の時点です。2020年2月に文春文庫へ入りました——こちらは震災から9年の時点です。
手に取るなら
現行版は文春文庫。謎解きの快感を求めて開く本ではありません。
読み終えて残るのは答えではなく、忘れないでいる誰かの気配のほうです。『ジョーカー・ゲーム』の切れ味を期待して開くと、まるで違う本に出会うことになります。
それでも、借りものの器で別のものを立ち上げるという手つきは、同じ作家のものです。電子書籍でも読めます。
描かれる人の立場は、原発の作業員、避難した母子、ロナルド・レーガン号の乗船員と篇ごとに移り変わり、それぞれ区切りよく読めます。ただ、一篇を読み終えたら、次の篇まで少し間を置くこと。
そのほうが、5つの位置の遠さがよく見えます。忘れない者の側に立って読む本です。
柳広司について
柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。
同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。
初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。
2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。
書誌情報
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