現代国内 2017
生没年も分からない絵師。
残ったのは絵だけだ。
『風神雷神』柳広司

書評

風神雷神

生没年すら不明の絵師・俵屋宗達の一生を、残された作品から逆算して描いた長編。

風神雷神 表紙画像
柳広司 講談社(講談社文庫)2017年
目次

金地の屏風の上で、風の神と雷の神が対になって踊っている。図版でなら誰もが一度は目にしているあの絵を描いたのが、俵屋宗達です。

ところがこの絵師、生没年すらわかっていません。柳広司『風神雷神』は、その空白だらけの一生に小説の形を与えた歴史長編です。

名前だけが巨大で、伝記の中身はぽっかり空いている。小説家にとって、これほどそそられる素材もそうはありません。

2017年に二冊で刊行され、2021年に改題・加筆のうえ講談社文庫の上下巻に入りました。

物語の入り口

主人公は伊年と呼ばれる若者です。評判の扇屋「俵屋」の後継ぎとして、大旦那の養子に入りました。

絵の修業のためではなく、商いの跡取りとして育てられた身です。ところがこの若者、目に映ったものを片端から自分の意匠に変えてしまう性分でした。

秀吉が開いた醍醐の花見で見た屏風絵、出雲阿国が立つ舞台、南蛮貿易で運ばれてきた品々。使えるものは何でも呑み込んで、扇の上に吐き出していきます。

伊年が絵付けをする俵屋の扇は、日に日に評判を増していきます。

転機は、平家納経の修繕仕事です。伊年が頼まれて描いた表紙絵は、書の天才、本阿弥光悦の興味を惹く出来になります。

町の扇屋の絵付けが、当代一の書家の目に留まる。そこから道が開けていきます。

幼馴染みの角倉与一は嵯峨野で出版と印刷の事業を始めていて、光悦が版下文字を書く日本語書物の下絵を、伊年に持ちかけます。料紙を手配するのは、これも幼馴染みの紙屋宗二。

光悦の書、伊年の下絵、宗二の料紙。三人の仕事が一つの本の上で重なり合って、「嵯峨本」が完成します。

扇屋の絵師として始まった一本の線が、法橋の位にまで届き、あの風神雷神図屏風に至る。到達点は美術史が知っています。

この物語が書いているのは、そこへ届くまでの道筋です。その道筋は、同じ時代を生きた才能たちとの出会いを重ねる形で描かれていきます。

町の扇屋の若者が、当代の一流と同じ仕事の場に立つ——その積み重ねが、物語を前へ運んでいきます。

読みどころ

読みどころは、残された作品という動かしがたい物証から、人物の内側を逆算していく手つきにあります。 犯人を名指す話ではありません。

それでも、やっていることは推理です。この絵があるということは、この絵師はこれを見たはずだ。

この意匠が使われているということは、この品に触れたはずだ。作品を証拠として、そこに至る人間を組み立てる。

スパイ小説の書き手が歴史小説を書いたのではなく、同じ方法を別の題材に当てた、と言うほうが正確です。

絵の描写が具体的で、伊年が何をどう見て、何を取ったのかが一手ずつ追えるようになっています。美術の知識がなくても置いていかれる心配はありません。

描かれる人も土地も史実に名を残したものばかりですから、読みながら作品名を一つずつ確かめる楽しみもついてきます。光悦、与一、宗二。

伊年のまわりに集まる人物は、それぞれ美術史や出版史に名を残しています。若い頃の彼らが京の町でどう交わっていたのか、その想像も、史実の空白を埋める仕事の一部です。

そして、空白の埋め方です。生没年すら不明の人物を書くとき、作家には大きな自由があります。

同時に、埋めてはいけない一線もあります。残された作品と矛盾する生涯は書けない。

自由さと一線の引き方、その両方が、この長編の見どころです——どこを埋め、どこを空けたままにしたかは、読んでからの楽しみです。

作品の背景

柳広司は『ジョーカー・ゲーム』などのスパイ小説の書き手として知られていますが、この作品は、その印象からずいぶん離れた場所に立っています。舞台は桃山から江戸初期の京、主人公は扇屋の絵師です。

ただし、離れているのは題材だけです。デビュー作の『黄金の灰』はシュリーマンを、その後の作品はダーウィンやソクラテスを探偵役に据えていました。

史実に残る人物の、記録に残っていない内側を、残された事実から組み立てる。この作家は最初からそれをやってきました。

宗達は、その方法にうってつけの人物です。作品は残り、生涯は残っていない。

単行本は2017年8月に『風神雷神 風の章』『雷の章』の二冊として出て、執筆には足かけ3年を要しました。2021年3月に講談社文庫へ入る際に改題と加筆を経て、上下巻になっています。

手に取るなら

現行版は講談社文庫の上下巻で、上巻288ページ、下巻320ページ。腰を据えて向き合うだけの厚みがあります。

『ジョーカー・ゲーム』から入った人には、同じ作家の同じ方法が、桃山の京でどう働くかを確かめる本として。美術に興味のある人には、そのまま。

読み終えたあとで、屏風の図版を検索することになります。金地の上の二柱の神が、読む前とは違って見えるはずです。

柳広司について

柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。

同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。

初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。

2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。

書誌情報

出版社
講談社 / 講談社文庫
刊行年
2017
ISBN-13
9784065221860
系譜
現代国内

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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