橋まで辿り着いて息絶えた。
麒麟の翼
瀕死の男はなぜ日本橋まで歩いたのか。七福神巡りの痕跡を加賀恭一郎が辿る。
胸を刺された男性が、日本橋の上で息絶えました。刺された場所から、瀕死の状態で、そこまで移動していたのです。
なぜ、そこへ向かったのか。『麒麟の翼』は、加賀恭一郎がその理由を探る、加賀恭一郎シリーズの第9作です。
捜査のなかで加賀は、被害者が生前「七福神巡り」をしていたことを突き止めます。ところが家族には、その目的に心当たりがない。
自分たちは父のことを何も知らなかった、と家族は口にします。父は何を思って、橋を目指したのか。
家族の知らなかったその答えを、刑事が一つずつ拾い集めていく。その道のりが、この長編の主題です。
物語の入り口
日本橋の上で、男性が息絶えました。胸を刺されていました。
ただし、刺されたのはその場所ではありません。彼は瀕死の状態で、橋の上まで自力で移動していたのです。
麒麟の像が立つ、あの橋の上まで。なぜ、そこへ向かったのか。
刺された人間が、残された力を使って辿り着こうとした場所。その理由が、この長編の軸です。
犯人を探す前に、まず被害者を知らなければならない。加賀の捜査は、そこから始まります。
捜査に入った加賀恭一郎は、被害者が生前「七福神巡り」をしていたことを突き止めます。七福神を巡る、という行為。
それを、この男性は続けていた。ところが家族に訊いても、その目的に心当たりがない。
自分たちは父のことを何も知らなかった。家族の口から出たのは、その言葉でした。
同じ家に暮らしていた父の、知らなかった一面。七福神巡りは、その入口です。
家族の知らない父を、刑事が代わりに知っていく。その順序の切なさが、この物語の底にあります。
やがて、加賀が向けたひとことが、事件の周りにいる一人の気持ちを揺らします。七福神を巡り歩いていた父と、その目的を知らない家族。
二つのあいだに開いた隔たりが、この親子の物語の出発点です。父が何を思って橋へ向かったのかは、加賀の捜査とともに見えてきます。
読者は、加賀とともに、被害者の足取りを辿ることになります。犯人探しよりも、なぜそこへ向かったのか、という一点。
日本橋という土地の地理そのものが、推理の材料になっています。七福神の社を歩き、橋を渡り、関係者に会って細部を聞き取る。
加賀の捜査は、いつものように地道で、いつものように執拗です。その先に、家族が知らなかった父の姿があります。
読みどころ
瀕死の男がなぜ日本橋まで歩いたのか。犯人の名より先に、その一点を読み手に追わせる作りになっています。
犯人は誰か、という問いの手前に、もっと切実な問いがある。刺された人間が、最後の力で向かった場所。
その理由を知ることは、その人が何を思っていたかを知ることです。七福神巡りという手がかりが、その思いへ向かう道筋になっています。
答えに辿り着いたとき、読者は被害者を、家族より少しだけよく知ることになります。
もうひとつは、日本橋という土地の使い方です。七福神の社、橋、路地。
土地の地理そのものが、推理の材料に変わっている。前作『新参者』で加賀が歩いた街を、この巻ではもう一度、別の目的で歩くことになる。
地道な捜査を味わう読み味と、親子の物語の重さ。二つが、日本橋の上で重なります。
橋という場所が、この物語ではただの舞台以上の重みを持ちます。
こんな人におすすめ
地道な捜査を味わいたい読者、親子の物語に心を動かされる読者に向いています。『新参者』で加賀と日本橋の組み合わせが気に入った人なら、同じ街を別の用件でもう一度歩くこの巻にも、すんなり入っていけるはずです。
七福神の社を一つずつ訪ねていく道筋を、地図を思い浮かべながら追うのも、この巻ならではの楽しみ方です。逆に、意外な仕掛けや派手な展開を求める気分のときには、本作の静かな歩みは少しもどかしいかもしれません。
その静けさこそが、この一冊の温度です。
作品の背景
『麒麟の翼』は、東野圭吾が1986年の『卒業』から書き継いできた加賀恭一郎シリーズの第9作で、2011年3月に講談社から刊行されています。前作『新参者』で日本橋に着任した加賀が、ふたたび日本橋を舞台に事件を追う一冊です。
刊行の年の『週刊文春ミステリーベスト10』では国内部門7位に入りました。2012年1月には、土井裕泰監督、阿部寛主演で『麒麟の翼 〜劇場版・新参者〜』として映画化されています。
現行版は講談社文庫で384ページ。関係者に会って細部を聞き取っていく加賀の手つきは、この作家の警察小説の持ち味で、『麒麟の翼』でもそれが物語の芯になっています。
手に取るなら
現行版は講談社文庫。加賀恭一郎シリーズの第9作で、『新参者』の次に読むのが順当ですが、本作単独でも筋は追えます。
映画版から入った人も、原作の活字で七福神の道を歩き直してみてください。父のことを何も知らなかった、という家族の言葉の先にあるものを、加賀とともに確かめに行く一冊です。
東野圭吾について
東野圭吾は1958年、大阪市生野区の生まれです。大阪府立大学工学部電気工学科を卒業し、日本電装(現デンソー)の技術者として働きながら推理小説を書き、1985年に『放課後』で第31回江戸川乱歩賞を受けてデビューしました。
翌年に会社を辞めて上京し、専業作家になっています。
長く大きな話題作に恵まれない時期が続きましたが、1998年の『秘密』が広く読まれ、翌年の第52回日本推理作家協会賞(長編部門)を受賞しました。2006年には『容疑者Xの献身』で第134回直木賞と第6回本格ミステリ大賞を受けました。
刑事・加賀恭一郎と物理学者・湯川学のシリーズを軸に、学園もの、本格の謎解き、サスペンス、ミステリの約束事を笑うパロディまで幅広く書き、2023年には著作の国内累計発行部数が1億部を超えています。同じ年に菊池寛賞、2024年に日本ミステリー文学大賞を受け、2026年7月に68歳で亡くなりました。
書誌情報
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