絞首台には本物の死体。
ジャンピング・ジェニイ
「殺人者と犠牲者」の仮装パーティで、絞首台に本物の死体が
屋上のテラスに組まれた絞首台から、藁で作られた縛り首の女がぶらりと下がっています。招待客はそれぞれ、名だたる殺人者やその犠牲者に扮して集う夜。
題して〈殺人者と犠牲者〉——悪趣味きわまる仮装パーティの、これが余興です。そしてこの座興めいた道具立てのなかへ、やがて本物の死が忍び込んでくる。
英国探偵小説黄金期の雄、アントニイ・バークリーの代表作のひとつ『ジャンピング・ジェニイ』は、この不吉な予兆とともに幕を開けます。
物語の入り口
物語の舞台は、小説家ストラットンが催す〈殺人者と犠牲者〉のパーティです。招待客はめいめい、有名な殺人者やその犠牲者に扮して集まってくる。
屋上のテラスには余興として絞首台が組み上げられ、藁製の縛り首の女が吊るされています。よりにもよって小説家の主催で、死刑台を眺めながら宴を張ろうという趣向。
あろうことか、それが座興として成立してしまう夜なのです。殺人を娯楽として愉しむ探偵小説というジャンルそのものを、どこか映し込んだかのような設定でもあります。
この胡乱で退廃的な空気が、まず読者を作品世界へ引き込みます。
その座には、名探偵ロジャー・シェリンガムの姿もあります。招待客を眺めるうち、彼がふと目を留めるのは、ひとりの女性。
主催者の義妹、イーナです。座を仕切るこの人物には、何人もの敵がいる——居合わせた人々の反感を買ってやまない、招待客のなかの嫌われものなのです。
華やいだはずの宴の底で、彼女を巡ってだけは、どこか剣呑な空気がわだかまっている。シェリンガムは、その不穏を静かに見て取ります。
そして宴が終わる頃、屋上の絞首台に異変が起きています。藁人形が下がっていたはずのその場所に、人形の代わりとして、本物の死体が吊るされていたのです。
つい先刻まで座興として見上げられていた絞首台が、一夜のうちに、ほんとうの死の舞台へすり替わっている。余興と現実の境目が、いつのまにか静かに踏み越えられているのです。
仮装パーティの浮かれた喧騒と、頭上に音もなく下がる死体。この眩暈のするような落差が、読者を一気に物語の深部へ引きずり込みます。
読みどころ
この作品の背骨は、名探偵の視点にぴたりと寄り添って進む語りにあります。 本作はほぼ全編が、ロジャー・シェリンガムの見たもの、考えたことを軸に進んでいきます。
読者は名探偵のかたわらに立ち、彼の目を通して仮装パーティに集う人々の思惑や関係の綾を眺め、屋上の出来事の手ざわりをじかに受け取っていくことになる。名探偵に身をあずけて謎のなかを進んでいく、古典的な探偵小説の愉しみを正面から満たしてくれる作りです。
評価の高さも折り紙付きです。原著の刊行は1933年。
それから長い歳月を経た『2011本格ミステリ・ベスト10』では、“ゼロ年代”(2000〜2009年)の海外本格ミステリを対象としたオールベスト・ランキングで、本作が第3位に選ばれました。古典でありながら、現代の読者の目で選び直されてなお最前列に立つ。
時の淘汰をくぐり抜けたこの強さが、一冊の底力を何より雄弁に物語っています。
こんな人におすすめ
黄金期英国ミステリのたたずまいと、名探偵ものの語り口をゆったり味わいたい読者には、まっすぐ薦められる一冊です。とりわけ、皮肉とユーモアのきいた癖のある味わいを好む向きにはうってつけでしょう。
一方で、あくまで折り目正しく健全な探偵譚を求めて開くと、死刑台を余興に仕立ててしまうこの作品の毒気には、いささか面食らうかもしれません。とはいえ、その人を食った味わいこそがバークリーの本領。
ここが肌に合えば、この作家のほかの作品への扉もおのずと開くはずです。
作品の背景
バークリーの才が遺憾なく発揮された出色の一冊と評されるのが、本作です。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫版です。訳は狩野一郎。
巻末には訳者自身のあとがきに加えて、川出正樹による解説が収められています。名探偵ロジャー・シェリンガムが活躍するシリーズの、これが第9作。
英国黄金期の探偵小説が宿していた実験の精神に触れる入り口として、これほど恰好の一冊はそうそうありません。
アントニイ・バークリーについて
アントニイ・バークリーは1893年、ハートフォードシャー州ワトフォードの生まれです。本名はアントニイ・バークリー・コックスです。
オックスフォード大学に学び、第一次世界大戦ではフランスで毒ガスを浴びて長く健康を損ないました。戦後は〈パンチ〉誌などでユーモア作家として書き、1925年に「?」という匿名で『レイトン・コートの謎』を発表します。
以後の長編で探偵役を務めるロジャー・シェリンガムは、ここで初めて登場しました。
『毒入りチョコレート事件』『第二の銃声』『ジャンピング・ジェニイ』と、名探偵がかならず正解にたどり着くという約束事を疑ってみせる作品を重ね、1930年にはクリスティやクロフツらとディテクション・クラブを創設しています。フランシス・アイルズ名義では『殺意』『レディに捧げる殺人物語』などを書き、後者はヒッチコックの映画『断崖』の原作になりました。
1971年に世を去っています。
書誌情報
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