ミステリーとしての読みどころ
名探偵は、いつも正しい。ホームズが君臨した時代、それは推理小説の暗黙の約束事でした。
手がかりを読み、論理を組み、真実を言い当てる——そういう超然とした知性を、読者はただ仰ぎ見ていればよかったのです。1913年に世に出た本書は、その約束事のまっただ中に、静かな問いを投げかけた一冊として知られています。
探偵とは、本当にそういう存在なのか。その問いこそが、のちに黄金時代と呼ばれる潮流の呼び水になりました。
著者について
書いたのはE・C・ベントリー。1875年にロンドンで生まれ、新聞社に勤めながら詩をものした人物です。
ミドルネームにちなむ独自の四行詩「クレリヒュー」の名は、いまも彼のものとして残っています。そんな詩人肌の書き手が放った長編小説が、この『トレント最後の事件』でした。
学生時代からの盟友が、〈ブラウン神父〉の生みの親G・K・チェスタトンで、本作は彼に捧げられています。ベントリー自身は多作の作家ではありませんでしたが、この一作の重みだけで、ミステリ史に名を刻みました。
のちにはチェスタトンの後を継いでディテクションクラブの第二代会長にも就いています。アガサ・クリスティが歴代最高の探偵小説の一冊に数え、江戸川乱歩が心から惚れ込んだと伝わる——そんな評価の積み重ねが、この本の立ち位置を物語っています。
物語の入り口
物語は、一人の富豪の死から動き出します。アメリカの大実業家シグズビー・マンダーソン。
金融界に隠然たる力を持つその男が、英国の田舎に構えた別邸の敷地で、銃で撃たれ息絶えているのが見つかるのです。彼の死は市場に短い動揺を走らせますが、不思議なことに、近しい人々のあいだに深い悲しみが広がる気配はありません。
悼む声よりも先に、どこか張りつめた沈黙が屋敷を包んでいる。莫大な富を握り、多くの人間を意のままにしてきた男が、誰にも心から惜しまれることなく横たわっている。
どこか冷えた空気のなかで、事件だけが取り残されている。そこへ乗り込んでいくのが、フィリップ・トレントという男です。
彼は本業を画家としながら、求めに応じて新聞のために事件を取材する、いわば筆を持った探偵。新聞社主の依頼を受け、彼はマンダーソン邸へと向かいます。
屋敷には、亡き富豪の妻メイベルをはじめ、秘書や使用人たちが暮らしています。彼らはそれぞれに、あるじの死をめぐって口が重く、言葉の端々に触れられたくない何かが滲む。
トレントは画家ならではの観察眼で現場を見つめ、人々の言葉に耳を傾け、微妙な表情のゆらぎを拾い上げながら、少しずつ手がかりを積み上げていきます。端正な英国上流社会の描写と、新聞業界のざわめきが背景に流れ、読者は事件の外側からではなく、トレントのすぐ隣に立って、彼の目に映るものを一緒に見つめ、謎の輪郭をなぞっていくことになります。
読みどころ
この作品の眼目は、探偵という存在そのものの描き方にあります。 トレントは、いわゆる万能の名探偵の型をなぞる人物ではありません。
彼は事件にのめり込み、思い悩み、時に心を揺らします。被害者の妻に惹かれていく自分に気づいてしまうような、人間くさい弱さを抱えた探偵なのです。
超越した知性が上空から真実を見下ろすのではなく、地に足のついた一人の人間が、迷いながら事件に分け入っていく。その姿は、それまでの探偵像とははっきり違う手触りを持っていました。
「探偵もまた誤りうる一人の人間ではないか」——1913年当時、この発想を正面から掲げること自体が、相当に踏み込んだ試みだったのです。
文体そのものも、この作品の魅力の一つに数えられます。詩人でもあった書き手だけあって、一文一文が丁寧に彫り込まれ、英国の田舎邸宅の静けさや、そこに集う人々のあいだに流れるよそよそしい空気が、こまやかに描き出されていく。
物的証拠を前にした着実な推論と、聞き込みで浮かび上がる人間模様、そしてトレント自身の心の揺れが、淡々とした筆致で層を成していきます。派手な事件が次々に起きるわけではありません。
それでも、丹念に織り上げられていくこの物語の手応えは、一世紀を経たいまの読者にもしっかりと届きます。後続の書き手たちが本作から受け取ったものは小さくないと、いまも折にふれて語られる一冊です。
タイトルに「最後の事件」とあるのは、ベントリーが当初、トレントを一作限りの探偵として構想していたことに由来します。後年、短編集などが加わって結果的にシリーズの体裁を取りましたが、この長編はもともと、たった一度きりの物語として書かれたものでした。
それゆえに、この一冊には一作に賭けた密度があります。
ホームズが幕を下ろしつつあった時期と、クリスティやセイヤーズら黄金期の書き手たちが台頭する時期。そのちょうど狭間に、本書は立っています。
古典本格の源流をたどりたい読者、探偵小説がどこで大きく舵を切ったのかを自分の目で確かめたい読者には、これ以上ないほど誂え向きの一冊です。派手な仕掛けやスピード感を求める向きには、端正で落ち着いた筆致がややゆっくりに映るかもしれません。
けれど、そのじっくりとした運びこそが、この作品が読者に差し出そうとしているものの核心でもあります。
手に取るなら
現在手に取るなら、創元推理文庫の新版(大久保康雄訳)です。新しいカバーと解説を添えて読み継がれています。
ミステリの歴史が一つの角を曲がった、その瞬間に立ち会う——そんな読書を味わいたい夜に、静かに開いてみてほしい古典です。