謎はそこから始まる。
試行錯誤
自分が殺人犯だと自首しても警察が信じてくれない——倒叙の枠組みを反転させたバークリーの異色長編。
余命わずかと宣告された地味な独身紳士が、残された数か月を「世のために、誰か一人を消す」ことに使おうと思い定める——そんな物騒きわまりない決意から静かに動きだす一編です。殺人を犯そうとする男の側に寄り添って読み進める、いささか倒錯した読書がここには待っています。
物語の入り口
物語の主人公はローレンス・トッドハンター。「ロンドン・レヴュー」誌に寄稿する、物静かで目立たない独身の紳士です。
あるとき彼は医師から大動脈瘤と診断され、残された命はあと数か月だと宣告されます。地味に生きてきた男に、突然、はっきりとした期限が引かれる。
多くの人ならうろたえ、あるいは残りの時間を静かに使おうと考えるところでしょう。ところがトッドハンターは、その期限を奇妙な方向へ思い詰めていきます。
どうせ間もなく死ぬ身なら、いっそ「世の中のためになる、有益な殺人」を一つだけ引き受けてはどうか——誰かがやらねばならない後始末を、失うもののない自分が肩代わりする。そう腹をくくってしまうのです。
標的はほどなく見つかります。「吸血鬼」とでも呼びたくなるような、酷薄非情な一人の女。
ファローウェイ一家は、その女の存在に苦しめられ、じわじわとあえいでいました。トッドハンターは、まるで手堅い仕事を段取るように準備を整えていきます。
そして拳銃をふところに忍ばせ、夕闇のなか女の家をたずね、椅子にすわる相手めがけて引き金を引く——。ここまでの運びは、犯行の側から事件を追う倒叙ミステリの導入として読めます。
計画の細部が一つずつ詰められていく過程を、読者はどこか共犯者めいた居心地の悪さとともに見守ることになります。善意と殺意がねじれて同居する、この主人公の愚直さが、本作の独特の温度をつくり出しています。
読みどころ
読みどころは、黄金期本格の作法をわざと裏返して走らせる、その骨格の妙にあります。 バークリーは倒叙という枠組みも、フェアプレイ本格の流儀も知り尽くしたうえで、それらを正面から組み立てるのではなく、あえて反転させてみせます。
論理を積み上げる本格の精度は保たれたまま、そこに法廷ミステリの興趣が重なってくる。重い題材(命の期限、殺人と正義、法の裁き)を扱いながら、文体は皮肉とユーモアをたっぷり湛えていて、読み心地は意外なほど軽やか。
真面目くさったトッドハンターの人物像と、乾いたおかしみの語り口が噛み合い、後半に向けて読み手の頭をしっかり動かしにきます。黄金期の探偵小説がしばしば「明るく端正な謎解き」として語られることを思えば、命の期限を背負った男の物語を土台に、論理の面白さと苦い笑いを両立させてみせる本作の手つきは、なかなか珍しいものです。
もう一つの楽しみは、『毒入りチョコレート事件』で忘れがたい印象を残した素人探偵アンブローズ・チタウィックが、ここで再び姿を見せることです。バークリーの世界を少し歩いたことのある読者なら、この再会だけでも頬がゆるむはず。
先にあの多重解決の傑作を読んでおくと、チタウィックの立ち位置や存在感がいっそう味わい深く感じられます。
こんな人におすすめ
型を持って型を崩す本格ミステリに惹かれる方、倒叙ものにひとひねり変わった角度から入ってみたい方には、まっすぐ薦められる一冊です。事件が起きてから探偵が颯爽と登場する、明快で軽快な謎解きだけを期待して開くと、この皮肉の効いた構えは少し勝手が違うかもしれません。
けれども、その「勝手の違い」こそがバークリーの持ち味であり、黄金期本格の懐の深さを知る手がかりでもあります。頭をフル回転させながら、同じ事件を何度も別の角度から眺め直す——そんな知的な回り道を面白がれる読者にこそ向いています。
作品の背景
本作『試行錯誤』は原書1937年刊『Trial and Error』。探偵小説の"型いじり"の名手バークリーが円熟期に世に問うた、代表作のひとつに数えられます。
手に取るなら
入手は創元推理文庫、鮎川信夫訳で。Kindle版も流通しています。
クリスティやセイヤーズに親しんだ先で英国黄金期本格の引き出しをもう一段広げたい方、そして「誰が犯人か」よりも「なぜ、どのように」に心が動く方に、腰を据えて付き合ってほしい長編です。
アントニイ・バークリーについて
アントニイ・バークリーは1893年、ハートフォードシャー州ワトフォードの生まれです。本名はアントニイ・バークリー・コックスです。
オックスフォード大学に学び、第一次世界大戦ではフランスで毒ガスを浴びて長く健康を損ないました。戦後は〈パンチ〉誌などでユーモア作家として書き、1925年に「?」という匿名で『レイトン・コートの謎』を発表します。
以後の長編で探偵役を務めるロジャー・シェリンガムは、ここで初めて登場しました。
『毒入りチョコレート事件』『第二の銃声』『ジャンピング・ジェニイ』と、名探偵がかならず正解にたどり着くという約束事を疑ってみせる作品を重ね、1930年にはクリスティやクロフツらとディテクション・クラブを創設しています。フランシス・アイルズ名義では『殺意』『レディに捧げる殺人物語』などを書き、後者はヒッチコックの映画『断崖』の原作になりました。
1971年に世を去っています。
書誌情報
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