ミステリーとしての読みどころ
ゴルフのスライスした打球を追って雑木のなかへ分け入った先に、顔の潰れた男の死体が横たわっている。頭上を走るのは鉄道の陸橋。
落ちたのはそこからか。イングランドの一寒村を舞台にしたこの一場から、『陸橋殺人事件』は静かに動き出します。
事件の凄惨さで読ませる作品ではありません。ひとつの死体を前に、居合わせた素人たちの解釈がどこまで枝分かれしていくか――その知的な遊戯を味わう小説です。
著者について
著者のロナルド・A・ノックスといえば、多くの読者がまず思い浮かべるのは、1929年に掲げた「ノックスの十戒」でしょう。本格推理が守るべき創作上の約束事を列挙したあの規範は、いまなおジャンルの背骨のひとつとして語り継がれる存在。
その起草者が、規範をまとめる4年前に世へ問うた長編デビュー作が本作です。カトリックの司祭にして神学者でもあった人物が、余技のように推理小説へ踏み込んだ――そう聞くと堅苦しい理屈の書物を想像するかもしれませんが、読み味はむしろ逆。
推理小説を書くという行為そのものを、どこか一歩離れた場所から面白がるような、飄々とした空気が全体に漂っています。約束事を明文化する側に回る前の書き手が、まだ誰も型を決めきっていない黄金期の入口で、自由に筆を遊ばせている。
その伸びやかさが、本作をただの資料的名作にとどめない魅力にしています。
物語の入り口
舞台はイングランドの一寒村にあるゴルフ場。そこでプレイに興じていたのは、推理小説にはうるさい一言居士ばかりの4人組です。
日頃から犯人当ての談義に花を咲かせ、あの作品のあの手口はどうの、と論じ合うのを何より好む面々。経歴はばらばらで、軍の情報畑を歩いた男もいれば、大学の職を退いた老学者もおり、土地の聖職者や、休暇でこの地を訪れたゴルファーもいます。
それぞれが人生で培った偏った教養と、いささかの思い込みを抱えて、のどかな緑の上に集っている。
その日、一人のスライスした打球が林のほうへ大きく逸れます。ボールを探して雑木のなかへ踏み込んだ彼らの目に飛び込んできたのが、頭上の鉄道陸橋から落ちたと思しき、顔の潰れた男の死体でした。
穏やかな休日の空気は、この一瞬で一変します。
やがて警察が現場に踏み込み、事件をあっさり処理しようとします。ところが、日頃から推理談義で鍛えた4人は、それで引き下がる人々ではありません。
警察の見立てをよそに、めいめいが自分の来歴と流儀に従って、独自の調べに乗り出していくのです。ここから本作の本領が始まります。
一人が組み立てた筋書きを、別の一人が違う角度から突き崩し、また誰かが新たな図を描き直す。読者は、この素人探偵たちの推理合戦を、テーブルのすぐそばで眺めるような位置に立たされます。
誰の言い分がもっともらしく響くのか。耳を傾けているうちに、いつしか自分もまた仮説の輪へ引き入れられている。
読みどころ
本作の醍醐味は、ひとつの死をめぐって複数の頭脳が競い合う、多重解決というかたちそのものにあります。 のちに広く用いられるこの趣向を、黄金期のまさに入口で素描してみせた点に、ジャンル史のうえでの価値があります。
名探偵がただ一人ひらめきで真相を射抜くのではなく、素人たちが互いの推理を検証し、訂正し合う。その相互チェックのプロセスが、そのまま物語の推進力になっているのです。
手がかりは読者にもきちんと開かれ、超自然的な逃げ道は用意されていない。後年の規範意識の芽が、すでにこの一作の骨組みに埋め込まれていると見ることもできます。
もう一つ味わい深いのは、推理に熱を上げる人々を見つめる著者のまなざしです。登場人物たちが真剣であればあるほど、その熱心さにはどことなく可笑しみが差す。
けれど、その可笑しみが彼らの知的な誠実さを損なうことはありません。生真面目さと諧謔が同居するこの絶妙な距離感は、のちの英国本格が育てていくユーモアと知性の同居の、ずいぶん早い先駆けと呼べるものです。
真剣な推理と、それを微笑ましく眺める視線とが、同じ紙面のうえで軋みなく成立している。この温度の低い可笑しみこそ、多くの読者が本作に惹かれる隠れた理由のひとつでしょう。
そのぶん、大がかりな仕掛けや事件の派手さを期待して開くと、拍子抜けするかもしれません。本作が差し出すのは、ひとつの死体を前に人間の解釈がどこまで分岐し、どのように互いを正していくか、という思索の道行き。
派手な驚きよりも、頭を使う静かな遊びに時間を預けたい読者、黄金期英国の空気そのものを吸い込みたい読者にこそ、深く馴染む一冊でしょう。
手に取るなら
邦訳は宇野利泰の手により、創元推理文庫から1982年に刊行されました。現在も電子書籍を含めて手に取ることができ、思い立ったときに気軽に読み始められるのはありがたいところです。
本格黄金期の入口で、規範を定める前のノックスがのびのびと筆を遊ばせた原点として、ジャンルの成り立ちに関心を寄せる読者には、見逃しがたい一冊。多重解決という趣向がどこから芽生えたのかをたどるうえでも、確かな出発点になってくれます。