それだけで狙われる。
蜘蛛男
好みの女性を狙う殺人鬼と明智小五郎の追跡を描く、怪奇趣味と速度の乱歩長編。
1929年、江戸川乱歩は雑誌『講談倶楽部』で新しい連載を始めました。短編で評価を築いた作家が、大衆向けの通俗長編へと活動の幅を広げていった時期にあたります。
同じ年には『朝日』で『孤島の鬼』の連載も走っており、乱歩は長い物語を同時に書き継いでいました。その只中で生まれた『蜘蛛男』は、怪奇趣味と追跡の速度をためらいなく前面に押し出した、明智小五郎の登場する物語です。
物語の入り口
物語を動かすのは、一人の殺人鬼の出現です。好みの女性を狙う殺人鬼・蜘蛛男が現れる——物語はそこから動きだします。
どこの誰なのか、なぜ女性を狙うのか。正体の見えないまま、狙われるのは好みの女性だという一点だけが、読み手の前に突きつけられます。
情報の少なさが、そのまま不気味さの芯になっています。
これを止めようと動くのが、犯罪学の権威・畔柳博士です。犯罪を阻止しようとする手は打たれます。
それでも、被害者は跡を絶ちません。止めようとする者がいて、なお次の知らせが届く。
読者はその知らせを一つずつ受け取る側に立たされ、殺人鬼がまだどこかで次の相手を見定めているという感覚を抱えたまま、頁を進めることになります。安心できる場所がどこにもない、という落ち着かなさが、序盤の空気を形づくっています。
そんな中、明智小五郎が事件に加わります。1925年の「D坂の殺人事件」で初めて登場し、短編で謎を解いてきた名探偵が、今度は正体の見えない殺人鬼を相手に、追う側として走り出す。
やがて明智は蜘蛛男の正体を見破り、その男を追い詰めるための作戦を組み立てていきます。狙う者と、それを狩ろうとする者。
読み手の関心は、その知恵比べへと引き寄せられていきます。
入り口の段階で読み手に渡されているのは、殺人鬼がいること、止めようとする者がいること、そして追う探偵がいること。この三つの駒が盤上にそろったところから、物語は追跡の速度を上げていきます。
怪奇の霧のなかを、追う者と追われる者が駆けていく——その走り出しの瞬間に、読み手はもう立ち会っています。
読みどころ
読みどころは、怪奇の濃い影と追跡の速度とが、一つの物語のなかで同居しているところにあります。
怪しさに足を止めさせる力と、先へ急がせる力。『蜘蛛男』は短編で培った怪奇趣味を手放さないまま、それを雑誌連載という長い尺に載せ、追う者と追われる者の物語として走らせています。
不気味さに息を詰める時間と、先へ先へと押し出される時間がひとつながりになっているところに、大衆向けの連載へ踏み出した乱歩の意気込みが表れています。雑誌で次の号を待った当時の読者の気分を、いまは一冊の文庫で通して味わえます。
もうひとつは、探偵の見え方です。「D坂の殺人事件」で謎を解いた人物が、この時期の連載では、正体の見えない相手を追い詰める役回りを担います。
初期短編で明智に出会った読者ほど、同じ名前の探偵が別の速度で動く姿に新鮮さを覚えるはずです。
こんな人におすすめ
正直に伝えておくべきでしょう。女性を狙う犯罪を扱い、恐怖と怪奇を正面から押し出す作品なので、現代の感覚とは隔たりを感じる箇所があります。
そうした描写がつらい方には向きません。けれども、昭和初期の大衆読物がどれほどの熱量で読み手を引っ張ったのかを確かめたい人や、乱歩の怪奇趣味を短編より大きな器で浴びてみたい人には、その熱がそのまま届きます。
作品の背景
『蜘蛛男』は明智小五郎シリーズの一作で、1928年の「陰獣」で華々しく復帰した乱歩が、その勢いのまま、より広い読者に向けた連載へ踏み出していった時期の作品です。現行版は角川ホラー文庫の「江戸川乱歩ベストセレクション」の第8巻で、同じ叢書には「陰獣」を収めた第4巻、『孤島の鬼』の第7巻も並んでいます。
怪奇趣味の側から編まれた叢書に、明智ものが並んでいる格好です。
手に取るなら
現在手に取るなら、角川ホラー文庫『蜘蛛男 江戸川乱歩ベストセレクション(8)』です。探偵の出発点を先に知っておきたい場合は、「D坂の殺人事件」を収めた新潮文庫『江戸川乱歩傑作選』を並べて読むと、足取りの変化がよく見えます。
どちらから入っても筋は追えますが、短編の明智と連載作の明智を読み比べる楽しみは格別です。殺人鬼の影と追う者の足音が交互に響く連載の熱を、一気に浴びてみてください。
江戸川乱歩について
江戸川乱歩は本名を平井太郎といい、1894年に三重県名張で生まれました。早稲田大学で経済を学んだあと、貿易会社勤めや古本屋などの職を転々とし、1923年、雑誌『新青年』に載った「二銭銅貨」で作家になります。
筆名はエドガー・アラン・ポーをもじったものです。1925年の「D坂の殺人事件」で名探偵明智小五郎を登場させ、1936年からは『怪人二十面相』に始まる少年探偵団シリーズで年少の読者もつかみました。
戦後は評論集『幻影城』などで海外の探偵小説を論じ、1947年に探偵作家クラブ(のちの日本推理作家協会)の初代会長に就任します。1954年には還暦を機に江戸川乱歩賞を設け、雑誌『宝石』の編集にも携わって、後に続く書き手の道を整えました。
1965年に没しています。
書誌情報
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