その女が密室で殺された。
孤島の鬼
密室で恋人を喪った青年の回想。乱歩が長編作家になった、その最初の一冊。
恋人が遺していったのは、古い系図でした。幼い頃に親に捨てられた彼女にとって、それは自分がどこの誰なのかを知るための、ただ一つの手がかりだったものです。
江戸川乱歩『孤島の鬼』は、それを受け継いだ青年・蓑浦が、過ぎた日々をふり返って語る回想の物語です。恋の相手は密室で命を奪われ、手もとには出自の謎を封じた紙だけが残る。
雑誌の短編で世に出た書き手が、はじめて長い物語を最後まで書き通した作品でもあります。
物語の入り口
物語は、蓑浦が自分の身に起きたことをふり返る一人称の回想として進みます。恋と喪失を、時を経てから言葉にしていく語り口です。
語りだしの時点で、出来事はすでに過去のものになっている。聞き手は、その声が何を思い出そうとしているのかを、一行ずつ手渡されていくことになります。
青年が恋に落ちた相手は、幼い頃に親に捨てられた女でした。自分の身元を示すものは、古い謎の系図のほかに何もありません。
どこの家に生まれ、なぜ手放されたのか。それを確かめる道は、家の名と血筋を書き連ねた古びた図のなかにしか残されていないのです。
親の顔も知らず、手もとの図だけを頼りに自分の来し方を思い描くほかない女——彼が心を寄せたのは、そういう人でした。
その女が、密室で殺されます。恋人を失った青年の手に残ったのは、彼女が遺した系図でした。
誰が、なぜ彼女を死なせたのか。そもそも彼女は、何者だったのか。
二つの問いは、同じ紙の上で重なり合っています。蓑浦はその図を手がかりに、死の真相へ迫ろうと動きだします。
愛する人を喪ったばかりの彼のすぐ隣で、読者は古い図を一緒に覗きこむ位置に据えられます。
真相を追いはじめた彼の行く手には、恐ろしいものが待ち受けています。密室の謎を追う推理の筋と、頁の奥から滲みだしてくる得体の知れない気配——その二つが、物語の歩みにつれて少しずつ絡まり合っていきます。
語り手がすでに通り過ぎたはずの出来事であるだけに、その先に何が控えているのかという問いは、じわりと重さを増して読む側にのしかかってきます。
読みどころ
本作の醍醐味は、密室の謎解きと系図がはらむ怪奇とが、一本の糸で結ばれているところにあります。
物語は、密室での殺人という本格の謎解きの型から動きだします。乱歩はそこに、出自を記した古い系図という、まったく質の違う謎を重ねました。
一方は部屋という閉じた空間の問題で、もう一方は血筋と過去という、時間をさかのぼる問題です。空間の謎と時間の謎が、恋人の死を起点に一つの線へ撚りあわされていく。
怪奇と本格とが絡み合う読み味は、この作品を語るときに繰り返し挙げられてきたところです。
もうひとつ、これは恋の物語でもあります。現行の岩波文庫版を編んだ浜田雄介は、「日記帳」「接吻」「人でなしの恋」「蟲」とこの作品とを並べ、「愛のゆくえ」という主題のもとに一巻にまとめました。
失われた恋をふり返って語る声という枠組みそのものが、謎と怪奇の物語に、喪失の痛みという低い響きを通わせています。
論理の精緻さだけを物差しにして開くと、怪奇の色の濃さに戸惑う人もいるでしょう。けれども、その二つの謎が最後まで一本の物語として束ねられていく道筋を見届けると、乱歩自身がこれを長い作品のなかでいちばんの出来と考えていた事実にも、うなずけるものがあるはずです。
こんな人におすすめ
本格の謎解きと、怪奇小説の暗い引力とを、同じ物語のなかで味わいたい人に向いています。乱歩を短編でしか読んだことのない人が、長い物語の書き手としての姿に出会う入り口にもなります。
逆に、名探偵が鮮やかに謎を解く姿を目当てにするなら、明智小五郎の登場する作品から入るほうが期待に沿うでしょう。
作品の背景
1929年前後は、短編の書き手として評価を築いた乱歩が、大衆向けの長い連載へと活動の幅を広げていく時期にあたります。『孤島の鬼』は、博文館の森下雨村の依頼を受けて、新しく創刊された雑誌『朝日』に1929年1月から1930年2月まで連載され、1930年に改造社から単行本になりました。
執筆にあたって乱歩は三重県の鳥羽に滞在し、旧友の岩田準一をそこへ招いています。まとまった長さの物語を最後まで書ききった最初の作品で、以後の長編路線はここから始まりました。
明智小五郎は登場しません。乱歩自身、長い作品のなかではこれがいちばんの出来だと考えていたといい、2012年版『東西ミステリーベスト100』では国内編の27位に入っています。
手に取るなら
現在手に取るなら、岩波文庫『江戸川乱歩作品集Ⅰ』です。浜田雄介の編で、500ページのなかに先に挙げた4編と『孤島の鬼』の5作が収められています。
この作品だけを読みたい場合は、角川ホラー文庫『孤島の鬼 江戸川乱歩ベストセレクション(7)』(2009年、352ページ)が入手しやすい別版です。名探偵のシリーズものではないため、ほかの乱歩作品を読んでいなくても差し支えありません。
古い系図を遺された青年の語りに、最初の頁から耳を傾けてみてください。
江戸川乱歩について
江戸川乱歩は本名を平井太郎といい、1894年に三重県名張で生まれました。早稲田大学で経済を学んだあと、貿易会社勤めや古本屋などの職を転々とし、1923年、雑誌『新青年』に載った「二銭銅貨」で作家になります。
筆名はエドガー・アラン・ポーをもじったものです。1925年の「D坂の殺人事件」で名探偵明智小五郎を登場させ、1936年からは『怪人二十面相』に始まる少年探偵団シリーズで年少の読者もつかみました。
戦後は評論集『幻影城』などで海外の探偵小説を論じ、1947年に探偵作家クラブ(のちの日本推理作家協会)の初代会長に就任します。1954年には還暦を機に江戸川乱歩賞を設け、雑誌『宝石』の編集にも携わって、後に続く書き手の道を整えました。
1965年に没しています。
書誌情報
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