血の海に沈んでいた。
ポアロのクリスマス
クリスティーが「密室で勝負する」と宣言して書いた一作。カントリーハウス×クリスマス×血の密室
「クリスマスに一族が集まる」——その温かなはずの習慣が、これほど不穏な装置に化けるとは。アガサ・クリスティー『ポアロのクリスマス』は、聖夜のカントリーハウスを舞台に、内側から施錠された部屋での惨劇を描く一作です。
黄金期英国本格、雪に閉ざされた古い館、ホリデーミステリ、そして密室。本格ファンの好物が、これでもかと一皿に盛り込まれています。
本作には、成り立ちにまつわる有名な逸話があります。クリスティーの義兄が「あなたの作品は近ごろ上品すぎる。もっと血の気の多い、どぎつい殺人を書いてほしい」と注文をつけ、それに応えて書かれたのが本書だと言われています。
事実、巻頭にはマクベスからの一節が掲げられ——「あの老人が、あれほどの血を持っていたとは、いったい誰が思っただろう」——物語全体の基調を静かに定めています。上品な謎解きの名手が、密室と流血で本気を出した。
ポアロシリーズ第17作、1938年に世に出たこの一冊は、その意味でどこか特別な位置に立っています。数ある名探偵ものの中でも、季節の趣向とハードな殺人がこれほど噛み合った作品はそう多くありません。
物語の入り口
舞台はヨークシャーの古い館、ゴーストン・ホール。暴君的な老富豪サイメオン・リーが、長らく疎遠だった息子たちとその妻、遠方に暮らす孫娘までを呼び寄せ、一族そろってクリスマスを過ごそうと言い出すところから、物語は動き始めます。
年老いた家長の気まぐれな親愛——と見せて、その胸の内はまるで別物でした。狙いは、久しく顔を合わせずにいた家族を一つ屋根の下に集め、互いを反目させ、遺言書の書き換えをちらつかせては全員をかき回すこと。
聖夜の食卓には、和やかさよりも先に、張りつめた気配が満ちていきます。
呼び集められた顔ぶれは、決して仲睦まじいとは言いがたい面々です。長く離れて暮らすうちに溝の深まった息子たちとその妻、遠方から訪れる孫娘、そして屋敷に仕える使用人たち。
それぞれが胸に含むところを抱えたまま、同じ食卓を囲むことになります。老当主はといえば、その緊張を面白がるかのように、言葉の端々で家族を試し、揺さぶりをかけていく。
表向きは和やかな一族の集い、その水面下で、静かに何かが張りつめていきます。
そしてクリスマス・イヴの夜。二階の当主の部屋から、家具が倒れる轟音と、凍りつくような悲鳴が館じゅうに響き渡ります。
家族が階段を駆け上がると、ドアは内側から固く施錠されている。こじ開けて飛び込んだ先にあったのは、喉を切り裂かれ、血の海に倒れたサイメオン・リーの姿でした。
窓も閉ざされ、犯人がどこからこの部屋に入り、どこへ消えたのか、まるで見当もつきません。閉じられた部屋という、黄金期本格ファンが待ちかねた謎が、雪明かりの下でくっきりと立ち上がる瞬間です。
本作の面白さは、密室というハウダニットを軸に据えながら、「誰が、なぜ」という古典的な問いを同じ強度で編み込んでいるところにあります。集まった一族には、それぞれに動機がある。
全員が何かを隠し、全員に怪しい影が差す。たまたま近隣に滞在していたポアロが捜査に協力を申し出ると、屋敷に漂っていたのは悲嘆ではなく、むしろ互いへの疑いの色でした。
地元のサグデン警視とともに一族の一人ひとりに向き合ううち、誰の言葉にも小さな綻びが見え隠れする。「灰色の脳細胞」を存分に働かせるための舞台が、これでもかと整えられているわけです。
読みどころ
もう一つの読みどころは、「クリスマスに一族が集う」という習慣そのものを、物語の骨格に組み込んでいる点です。 季節を彩るお飾りではなく、事件を成立させる装置として聖夜が機能している。
クリスマスを扱ったミステリは数あれど、本作の聖夜は取り替えのきかない必然です。だからこそ十二月が近づくと、本格ファンの本棚から自然と引っ張り出される定番として、長く読み継がれてきました。
暖炉と一族の食卓、長年の確執、取り繕われた笑顔、そこへ響く悲鳴。雰囲気からじっくり浸りたい読者には、これ以上ないクリスマスの一冊です。
逆に、乾いた都会的なミステリや、とにかく先を急ぐ展開を好む向きには、館ものの様式美がやや悠長に感じられるかもしれません。ただ、その様式こそが本作の醍醐味でもあります。
急がず、雪に閉ざされた館の時間に付き合うつもりで開くのがおすすめです。
手に取るなら
邦訳は早川書房クリスティー文庫から、長らく村上啓夫訳で親しまれてきました。2023年には川副智子による新訳版も加わり、いまは新旧どちらの訳でも手に取りやすくなっています。
読みやすさを求めるなら新訳から、古典の手触りを味わいたいなら旧訳から、好みで選べます。クリスティー作品はどこから読み始めても構いませんが、本作は「クリスティーで密室ものを一冊」「黄金期英国本格のクリスマスを味わいたい」という気分にとりわけよく応えてくれます。
寒い夜、暖かい部屋で、紅茶かココアを片手に、ヨークシャーの古い館へ。聖夜の惨劇と、ポアロの推理の冴えを、どうぞゆっくり味わってください。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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