黄金期国内 1964
殺人か、事故か。
推理合戦が始まる。
『虚無への供物』中井英夫

書評

虚無への供物

氷沼家を不幸が襲う。密室の風呂場での死をめぐり、駆け出し歌手らの推理合戦が始まる。第8回江戸川乱歩賞次席。

虚無への供物 表紙画像
中井英夫 東京創元社(創元ライブラリ)1964年
目次

日本の探偵小説には、「三大奇書」という三作の括りがあります。夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、そして中井英夫『虚無への供物』。

最後に名を挙げたこの作品の舞台は、昭和29年の洞爺丸沈没事故で両親を失った兄弟のいる一家、氷沼家です。戦後の東京を背景に、薔薇や宝石といった象徴をちりばめて書かれた、耽美な探偵小説です。

物語の入り口

氷沼家の若い世代は、蒼司と紅司の兄弟、そして従弟の藍司です。兄弟は昭和29年の洞爺丸沈没事故で両親を失っています。

蒼、紅、藍と、三人の名にはそろって色の字が入り、叔父の橙二郎の名も同じ並びに連なっています。大きな事故で親を亡くした兄弟のいるこの家で、ほどなく新たな死が起きます。

まず命を落とすのは紅司です。場所は風呂場で、その風呂場は密室の状態にありました。

閉ざされた狭い空間のなかで、兄弟の片方が死んでいたのです。続いて、叔父の橙二郎もガスによって絶命します。

事故で両親を失った一家に、今度は二つの死が重なったことになります。

ここで問われるのは、二つの死が殺人なのか、それとも事故なのかという点です。密室の風呂場での死にも、ガスによる死にも、誰かの手が加わっていたのかどうかという問いがつきまといます。

人が死んだ時点で犯人探しが始まるのではなく、それがそもそも犯罪なのかどうかが、最初の争点として置かれているわけです。

その問いをめぐって動き出すのが、駆け出しの歌手・奈々村久生をはじめとする人々です。彼らは氷沼家の死について、推理合戦を始めます。

一家の悲劇が——殺人か事故かも定まらないまま——人々の推理の的になっていきます。昭和29年という時代の東京で、事件の検討はそうした形で幕を開けます。

洞爺丸の事故で両親を奪われた家に、紅司の死と橙二郎の死が続けざまに降りかかりました。蒼・紅・藍・橙の名を持つ一族を見舞ったその出来事を、読者は推理を戦わせる人々の輪のすぐそばで見守ることになります。

読みどころ

この作品の核にあるのは、二つの死を前にした「殺人か、事故か」という問いそのものです。

密室状態の風呂場での死と、ガスによる絶命。どちらの死も、まず殺人なのか事故なのかという地点から問われます。

犯人は誰かという問いの手前に、犯罪があったのかどうかという問いが置かれている——その構えが、物語の出発点になっています。しかも、その問いに取り組む顔ぶれには、駆け出しの歌手が名を連ねています。

事件の検討が推理合戦という形をとって始まるところに、この物語の始まり方の特色があります。

もうひとつは、物語を包む質感です。舞台は戦後の東京で、作中には薔薇や宝石といった象徴がちりばめられています。

蒼、紅、藍、橙と、色の字を名に持つ一族もまた、その彩りのなかに立っています。密室と推理合戦という探偵小説の骨組みの上に、こうした耽美な意匠が重ねられているのです。

塚本邦雄や寺山修司を世に送り出した短歌の編集者が書いた探偵小説である、という事実も、作品の成り立ちとして記憶しておいてよいでしょう。

そして、書かれた経緯そのものにも目を向けたくなります。半分の原稿の段階で江戸川乱歩賞の次席に入り、そこから完成稿の刊行まで、さらに2年を要しました。

完成を待たずに探偵小説としての評価の場に立ち、そのうえで時間をかけて仕上げられた作品です。

こんな人におすすめ

「三大奇書」の一角をなす作品を、実際に読んでおきたい人に向きます。密室の風呂場やガスによる死といった古典的な謎の舞台立てが好きな人、一つの事件をめぐって人々が推理を戦わせる場面に惹かれる人にも。

戦後の東京、薔薇や宝石に彩られた耽美な空気に浸りたい人にも合うでしょう。塚本邦雄や寺山修司の名を短歌で知っている人には、その二人を世に送り出した編集者の書いた探偵小説という入り方もあります。

作品の背景

『虚無への供物』は、中井英夫が長い時間をかけて書き上げた探偵小説でした。成り立ちには曲折があります。

構想が始まったのは1955年のことです。同人誌『アドニス』に碧川潭の名で連載されましたが、この連載は完結していません。

1962年には、半分まで書き上げた段階の原稿で第8回江戸川乱歩賞に塔晶夫の名義で応募し、次席に入りました。完成稿が講談社から単行本として刊行されたのは1964年で、名義は塔晶夫のままでした。

構想から数えれば、足かけ10年に及ぶ道のりです。

碧川潭、塔晶夫と、作品は二つの筆名を経て世に出ました。中井英夫という本名とあわせて、ひとつの物語に三つの名前が関わっていることになります。

手に取るなら

現行の版は、東京創元社の創元ライブラリ版(1996年)で、『中井英夫全集1』にあたる巻です。解説は相澤啓三が書いています。

講談社文庫からは2004年に上下巻の新装版が出ており、Kindleではこの新装版の上下合本版を読むことができます。全集の一巻にまとめて読むか、上下二冊の文庫で読むかは、持ち歩き方しだいです。

どちらの版を開いても、物語は洞爺丸沈没事故で両親を失った兄弟のいる家、氷沼家から始まります。

中井英夫について

中井英夫は1922年、東京の田端に生まれ、1993年に亡くなりました。父は植物学者の中井猛之進です。

東京大学文学部言語学科を中退して1949年に日本短歌社に入り、『短歌研究』『日本短歌』の編集長として葛原妙子、塚本邦雄、中城ふみ子、寺山修司らを世に送り出しました。1956年には角川書店に移って『短歌』の編集長となり、春日井建らを見出しています。

三島由紀夫や澁澤龍彦とも親交がありました。

小説では1964年に『虚無への供物』を刊行したのち、幻想小説の書き手として歩みます。「黒鳥館主人」「流薔園園丁」といった別号を名乗り、黒鳥や薔薇は作品にもくり返し現れました。

1974年には連作短編集『悪夢の骨牌』で第2回泉鏡花文学賞を受けています。1980年の『とらんぷ譚』は、それまでの短編集4冊に2編を加え、54枚のトランプに見立てて編み直したものです。

書誌情報

出版社
東京創元社 / 創元ライブラリ
刊行年
1964
ISBN-13
9784488070113
系譜
黄金期国内

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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