国家は彼を見張った。
太平洋食堂
紀州新宮の医師が開いた食堂から、“主義者”として国家に見張られていく男の半生を辿る歴史長編。
1904年、明治37年。紀州の新宮に、西洋の王様がかぶる王冠のような看板を掲げた一軒の食堂が開店します。
店の名は「太平洋食堂」。主人は町の医者で、大石誠之助。
髭を蓄えたこの人物を、地元の人たちは「ひげのドクトル」、毒を取るから「毒取るさん」と呼んで慕っていました。柳広司『太平洋食堂』は、この医師の半生を、食堂の開店から描き起こしていく歴史小説です。
物語の入り口
大石誠之助は、アメリカに渡って学び、シンガポールやインドにも足を延ばした経験の持ち主です。海の向こうを見てきた人が、紀州の港町に戻って、西洋料理の店を開く。
ナイフとフォークの並ぶテーブルは、この町の人たちにとって、初めて触れる外国でした。戦争を嫌い、差別を嫌い、いつでも貧しい側に立つ。
町の変わり者であり、同時に町に欠かせない人でもある。序盤は、そういう人物のまわりに集まる町の賑わいが、明るく描かれていきます。
食堂の場面から始まるので、最初のうちはほとんど町の話として読めます。誰が店に来て、何を食べ、何を話したか。
医者としての誠之助が、どんな患者にどう接したか。海の向こうで身につけた考え方を、この人は町のなかでどう使ったのか。
西洋料理も、医術も、言葉も、すべてが町の人たちに向けて開かれています。変わり者の店に人が集まる理由が、序盤を読むうちに腑に落ちてきます。
皮肉とユーモアと反骨の人。この主人公を言い表すのに、これ以上ぴたりと来る言葉はなかなか見つかりません。
雲行きが変わるのは、誠之助が幸徳秋水、堺利彦、森近運平といった人々と交流を深めていってからです。手紙が行き交い、議論が重なり、やがて「主義者」の一人として国家の目が彼を捉えるようになります。
町では「ドクトル」と呼ばれて慕われる人が、国家の側からは見張るべき相手として数えられる——同じ一人の人間に、まるで違う二つの顔が重なっていきます。日常の描写がどこまでも穏やかであるだけに、その町に監視が入り込んでくる違和感が際立ちます。
読みどころ
この本の読み心地を決めているのは、人が追い詰められていく過程を、手続きごと積み上げていく筆致です。 犯人を名指す物語ではありません。
密室も暗号もありません。それでも、この作品がミステリの棚に置かれる理由は、はっきりあります。
どんな言葉がどう扱われ、どんな理屈がどう通っていくのか。一つひとつは小さな手続きが、順番に重なっていく。
その積み上げを追う集中は、推理小説を読むときの集中とよく似ています。誰が何を言い、それがどう受け取られ、次に何が起きたか。
因果の鎖を一つずつ確かめる読み方が、この本ではいちばん報われます。
もう一つは、伝記としての出来です。留学先で何を見てきたのか、なぜ西洋料理の店だったのか、町の人々にどう受け入れられたのか。
王冠のような看板、ナイフとフォークの並ぶテーブル、患者と向き合う医者の顔——そうした断片が重なって、名前だけの存在だった男が、髭も声も持った一人の人間として立ち上がってきます。読み終えたあとに残るのは、歴史の知識ではなく、その人の手触りのほうです。
声高な告発の書ではありません。穏やかな場面が穏やかなまま書かれているからこそ、その穏やかさが後から効いてきます。
声を荒らげない書き方が、この題材にはいちばん強い。食堂のテーブルと、国家の目。
本来なら交わりようのない二つが、同じ町のなかに並んでいる。その並び方を、読む側は誠之助と一緒に、日々の暮らしの側から眺めることになります。
作品の背景
国家が個人を見張るという構図は、柳広司の『ジョーカー・ゲーム』シリーズの骨格でもあります。ここでは、その構図が謀略の遊戯としてではなく、明治の町に生きた一人の人間の身の上として書かれています。
単行本は2020年1月に小学館から出て、2023年2月に小学館文庫に入りました。電子書籍でも読めます。
大石誠之助は、歴史の闇に埋もれてきた人物です。何をした人で、どんな声で話し、町でどう暮らしていたのか。
その空白を、この本は560ページをかけて埋めていきます。
手に取るなら
現行版は小学館文庫、560ページ。厚みに怯むかもしれませんが、食堂の明るさから入れるぶん、最初の一歩は軽いはずです。
朗読版もあるので、耳で追うという手もあります。堺利彦は、同じ作家の『パンとペンの事件簿』にも登場します。
あちらは軽快な連作で、こちらは重い長編。二冊を並べて読むと、同じ人物の別の顔が見えてきます。
まず、王冠の看板の下をくぐって、ドクトルの食堂に入ってみてください。
柳広司について
柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。
同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。
初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。
2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。
書誌情報
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