現代国内 2021
取材に来た小林多喜二を、
蟹工船の男が尾行する。
『アンブレイカブル』柳広司

書評

アンブレイカブル

治安維持法下でペンを手放さなかった実在の書き手たちを追う、四篇のスパイ・ミステリ。

アンブレイカブル 表紙画像
柳広司 KADOKAWA(角川文庫)2021年
目次

小林多喜二、鶴彬、三木清。名前だけなら教科書の隅で見たことがあるかもしれません。

彼らが何を書き、どんなふうに見張られていたかまでは、授業ではなかなか習いません。柳広司『アンブレイカブル』は、戦中の日本を舞台に実在の書き手たちを描いた四篇の連作集で、『ジョーカー・ゲーム』の作家が書いたもう一つのスパイミステリです。

単行本は2021年1月に角川書店から、文庫は2024年1月に角川文庫から出ました。

物語の入り口

巻頭の「雲雀」の主人公は、蟹工船に乗っていた谷という男です。内務省の役人クロサキに雇われ、「プロレタリア文学の旗手」と称される小林多喜二の取材を受けることになります。

ところが現れた多喜二は、身構えていたのが馬鹿らしくなるほど気さくな青年でした。仕事を早く終わらせたい谷は、この作家の尾行を始めます。

雇い主は内務省の役人で、追う相手はプロレタリア文学の旗手と呼ばれる作家です。気さくな青年を、気が進まないまま追う。

その居心地の悪さが、巻頭の一篇の入り口です。

続く三篇も、それぞれ別の人物と別の距離から組まれています。特高に監視されながら、川柳という短い器で時代と闘う鶴彬。

十七音という短さは、検閲の目をかいくぐる器でもあり、逃げ場のない器でもあります。「消えた」記者の謎を追う満鉄社員の志木裕一郎。

そして稀代の哲学者と呼ばれた三木清。信念を貫き続ける彼らに、クロサキの影が迫っていきます。

目次に並ぶのは「雲雀」「叛徒」「カサンドラ」「赤と黒」の四つです。主人公も舞台も篇ごとに変わり、共通しているのは、見張られている人がいて、見張る側の影があるということ。

四篇の距離の取り方は、それぞれ違います。書き手本人のすぐそばに立つ篇もあれば、一歩引いた場所から眺める篇もあります。

その距離の違いが、四つの人物の違いを際立たせています。小説家、川柳作家、記者、哲学者。

書くものも、書く器も違う四人が、同じ時代の同じ影に向き合っている。四篇を通して読むと、時代の側の顔が、少しずつ見えてきます。

クロサキという名前が、篇をまたいで現れることも、その一助になっています。

読みどころ

読みどころは、見張る側と見張られる側、その両方の言葉を読まされるところにあります。 誰が誰に何を隠しているのか、どの言葉が本心でどの言葉が仕事なのか。

相手の一語一語から背後の事情を読み取ろうとする集中は、本格ものの推理場面に近い密度で続きます。尾行も密告も取り調べも、相手の言葉をどう読むかにかかっています。

派手な謎解きを期待すると肩透かしを食うかもしれませんが、言葉を証拠として扱うという意味では、これはまぎれもなくミステリの読み方です。

もう一つは、人物の描き方です。戦中の書き手たちを、悲劇の犠牲者としてではなく、矜恃を持った人として書く。

その姿勢が、四篇の調子を決めています。重い時代を扱いながら、読後に残るのは重さだけではありません。

書くことをやめなかった人たちの、書いているときの顔が残ります。名前の横に添えられた肩書きではなく、机に向かっている人間の姿として、四人がそれぞれ立ち上がってきます。

尾行の場面が、思いのほか面白い。追う側の目で書かれているぶん、追われている人物の何気ない振る舞いが、すべて手がかりに見えてきます。

多喜二の気さくさも、谷の目を通すと、別の意味を帯びてきます。谷と一緒に追ううちに、追われている青年のほうに、いつのまにか肩入れしはじめている自分に気づくことになります。

作品の背景

柳広司の『ジョーカー・ゲーム』のシリーズが書いていたのは、国家の側に立って世界を騙すスパイたちでした。この連作が書いているのは、国家に見張られる側の人間です。

尾行、密告、取り調べ。道具立ては諜報小説のものですが、守られようとしているのは国家の機密ではなく、書かれた言葉のほうです。

同じ作家が、同じ道具で、反対側から書いた——もう一つのスパイミステリと呼べるのは、そのためです。

文庫の解説は作家の森絵都。2025年からは『ヤングチャンピオン』で回鐘たまきによる漫画版の連載も始まりました。

手に取るなら

現行版は角川文庫、288ページ。主人公が篇ごとに替わるので、多喜二を追う「雲雀」を読み終えたら一度本を閉じ、次の人物に移る前に少し間を置いてもかまいません。

朗読版で耳から追うのも手です。『ジョーカー・ゲーム』から入った人には、同じ作家が反対側から書いたスパイ小説として。

名前しか知らなかった書き手たちが、この四篇を通ると、声を持った人間になります。谷の尾行に、まずついていくところから始まります。

柳広司について

柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。

同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。

初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。

2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。

書誌情報

出版社
KADOKAWA / 角川文庫
刊行年
2021
ISBN-13
9784041134757
系譜
現代国内 / 連作短編

柳広司をもっと読む

全作品一覧へ →

似た読み味を、他の作家で

気分タグ・系譜の重なりから自動抽出。★は管理人が実読して太鼓判を押した本

この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

プロフィールを見る →