ミステリーとしての読みどころ
「1から1000までの数字を一つ思い浮かべろ」。一通の手紙は、受け取った相手にそう命じます。
頭に浮かんだ数字は658。指示にしたがって同封された小さな封筒を開けると、そこにはこう記されていた——「おまえが思い浮かべる数字はわかっていた。658だ」。
『数字を一つ思い浮かべろ』は、この背筋の冷える一場面から幕を開ける、アメリカ発の不可能犯罪パズラーです。
著者について
著者はジョン・ヴァードン。2010年に発表された本作は、退職刑事デイヴ・ガーニーを主人公とするシリーズの、記念すべき第1作にあたります。
ガーニーは、数々の難事件を解決してきた元ニューヨーク市警の敏腕刑事。いまは第一線を退き、妻とともに田舎で静かな日々を送っています。
その穏やかな暮らしのなかへ、旧友を通じて奇怪な謎が転がり込んでくる——というのが、物語の出発点です。退職して事件から遠ざかったはずの男が、怪奇としか言いようのない不可能犯罪に、否応なく引き戻されていく。
その巻き込まれ方の妙が、まず一つ目の読みどころになっています。版元はこの一作を「アメリカ生まれのHONKAKUミステリー」と掲げ、日本の本格ミステリ好きへまっすぐ差し出しました。
邦訳は2018年、文春文庫から世に出ています。
発端の手紙を受け取るのは、ガーニー自身ではありません。彼の旧友のもとへ、それは届きます。
「1から1000までの数字を一つ思い浮かべろ」という奇妙な指示。半信半疑で数字を思い描き、言われるままに同封の封筒を開けてみれば、そこにはたったいま自分が頭に浮かべたばかりの数字が、すでに書かれている。
誰にも打ち明けていない、心のなかだけの数字を、見ず知らずの差出人が言い当てている。まるで手品を目の前で見せられたような、それでいて笑って済ませることのできない薄気味悪さが、この冒頭には満ちています。
たった一枚の紙きれが、これほど静かに人の心をざわつかせるものかと、読み手はここで思い知らされます。
一通で終わってくれれば、まだよかったのかもしれません。ところが便りは一度きりでは済まず、脅迫状めいた不吉な手紙が次々と舞い込みはじめます。
得体の知れない差出人は、いったい何を知り、何を狙っているのか。恐怖に耐えかねた旧友は、かつての凄腕刑事であるガーニーに相談を持ちかけます。
旧交を温めるはずの再会が、そのまま事件への入り口になってしまう。
そして、恐れていたことが現実になります。相談を寄せた男は、やがて殺害されてしまうのです。
殺人現場は、一面の雪。ところが犯人のものらしき足跡は、森のなかへ向かったまま、途中でぷつりと途切れていた——。
心を見透かすような手紙といい、この現場の光景といい、次から次へと不可解が積み上がっていく。読者は、静かな余生に戻ったはずの元刑事とともに、出口の見えない謎の連なりへ引きずり込まれていくことになります。
読みどころ
本作を駆動しているのは、「謎が、次の謎を呼ぶ」構成そのものです。 ひとつの不可解が解けきらないうちに、また別の不可解が重なっていく。
手品めいた事件が畳みかけるように連続していく手応えこそ、この長編の背骨だと言っていいでしょう。版元が添える「眩惑的な奇術趣味と謎解きの興趣あふれる野心作」という惹句も、決して大げさではありません。
数字を言い当てる手紙も、雪原に途切れた足跡も、読者の前に開かれたフェアな謎解きの俎上に、堂々と載せられている。そこに、謎解きを愛する読み手への著者の目配りが感じられます。
くわえて本作は、シリーズの幕開けでもあります。退職して穏やかに暮らしていた男が、事件を通じてかつての勘を取り戻していく——その語り口は、これから長く付き合っていく名探偵の第一歩を見届ける楽しさに満ちています。
ガーニーという一人の人物にこの巻で出会えるかどうかが、続く物語への入り口になる。第1作ならではの、たしかな引きです。
こんな人におすすめ
相性の面から言えば、手がかりを積み上げ、理詰めで不可能を崩していく謎解きの醍醐味を味わいたい読者に、まっすぐ応える一冊です。逆に、不可解な状況をじっくり提示し、じわじわと締め上げていく作りなので、スピードと活劇を最優先する読者には、やや腰を据えて構える必要があるかもしれません。
とはいえ、謎そのものの吸引力は強く、いちど「658」の一場面に捕まれば、頁をめくる手はなかなか止まらないはずです。心を読んだかのような手紙が投げかける「なぜ」と「どうやって」を、探偵とともにひとつずつ手繰り寄せていく——その静かな没入感を求める読者にこそ、本作は向いています。
手に取るなら
邦訳は文春文庫で読めます。デイヴ・ガーニー・シリーズの第1作にあたるので、この元刑事の探偵ぶりが気に入ったなら、続く事件へそのまま進んでいけるのも心強いところ。
アメリカ産の不可能犯罪パズラーの入り口として、腕におぼえのある謎好きに、まず手に取ってほしい野心作です。