ミステリーとしての読みどころ
霧のように現れては消える男が、事件のかたわらに静かに佇んでいます。アガサ・クリスティー『謎のクィン氏』は、名探偵の颯爽とした推理劇とは手ざわりの異なる、幻想味を帯びた連作短編集です。
謎解きの興味の奥に、どこか現実離れした薄明かりが差している。読み進めるほどに、これはクリスティーの作品なのにいつもと勝手が違う、と感じられてくる。
そんな一冊です。
著者について
アガサ・クリスティーといえば、緻密な仕掛けと意外な真相で知られる作家です。けれども本書が描くのは、そうした王道の謎解きとは少し違う世界。
1930年に刊行された全12編からなる本作は、彼女の数ある短編集のなかでも、はっきりと異色の位置を占めています。仄暗く幻想的な味わいが全体を包み、明快な論理の物語とは別の呼吸で読者を惹きつける。
しかも、ここに登場するサタスウェイトとクィンという二人は、クリスティー自身がとりわけ愛着を寄せた存在として知られています。作者が心を寄せた場所から生まれた物語には、どこか特別な温度が宿るものです。
数々の代表作の陰でひそやかに書き継がれた、この作家のもう一つの顔がここにあります。
主役の一人は、社交界の事情に通じた初老の紳士サタスウェイト(サタースウェイト)です。人の世を眺めることを何より好む観察者であり、華やかな集まりの片隅で、人々のふるまいや機微を静かに見つめている人物。
事件の当事者になるというより、傍らからそっと見守る側にいる人です。そこへ現れるのが、謎めいた男ハーリ・クィンです。
彼はここぞという折々に、どこからともなく姿を見せます。そして、来たときと同じように、霧のように立ち去っていく。
この不思議な男とサタスウェイトが交わす静かな対話に導かれるうち、もつれていた出来事の真相が、しだいに輪郭をあらわしていきます。二人が語り合ううちに、誰も気づかなかった一点にふと光が当たる。
その瞬間の静かな驚きが、各編の核にあります。
各編の発端は、いずれも不穏で美しい断片から立ち上がります。窓に映る幽霊の影が目撃したものとは何か。
事件の当日、メイドが大空に見たという不吉な兆候。カジノでルーレット係が見せた奇怪な振る舞い。
そして、一枚の絵が静かに語りかける自殺の真相。どれも日常のほんのわずかな綻びからほどけていく謎ばかりで、その綻びの奥には、いつも人間のドラマが息づいています。
事件の陰に、必ず誰かの人生がある。本書はそのことを、声高にではなく、確かな手つきで示していきます。
読者は華やかな社交界の隅に腰を下ろし、老紳士の隣で世の中を眺めるような位置から、一編ごとの謎がやわらかくほどけていくさまを見守ることになります。大がかりな捜査や派手な追跡があるわけではありません。
二人のあいだで交わされる言葉のなかから、見慣れた光景がまた違った表情を見せはじめる。その運びの静かさこそが、本書ならではの心地よさです。
クィンという名は、16世紀イタリアの即興喜劇コメディア・デラルテに登場する道化ハーレクインに由来しています。その名を負った男が物語の要所にふと現れるという趣向そのものが、本書に漂う幻想の気配を静かに支えています。
現実の事件を扱いながら、どこか幻想的な薄明かりがほのかに立ちのぼる。その独特の手ざわりが、読み手を最後まで離しません。
読みどころ
本書の魅力は、謎解きの興味と、現実の一歩外側にある幻想の手ざわりとが、絶妙に溶け合っているところです。 論理で割り切れる部分と、どこか説明のつかない余韻とが、一編のなかに同居している。
この読み味は、王道のクリスティー作品ではなかなか味わえないものです。名探偵が事件を鮮やかに裁いて幕を下ろす物語とは違い、ここでは謎が解けたあとにも、しんと静かな何かが残ります。
読み終えてページを閉じたあと、しばらく余韻に浸っていたくなる。そういう手触りの短編が並んでいます。
連作短編という形式も効いています。一編ごとにきちんと完結する読み心地の良さと、巻を通じて少しずつ積み重なっていく独特の空気とを、同時に楽しめる。
忙しい日々の合間に一編ずつ読み進めても、腰を据えて一気に読み通しても、それぞれの味わい方が用意されている作りです。
クリスティーの意外な一面に触れてみたい読者、そして論理一辺倒ではない、少し翳りのある幻想的な物語を好む読者には、とりわけ響く一冊です。逆に、派手なトリックや畳みかけるサスペンスを期待して開くと、この静かで内省的な歩みは物足りなく映るかもしれません。
けれども、その静けさこそが本書の持ち味です。急がず味わうほどに、じわりと深まっていく種類の魅力と言えます。
手に取るなら
現在は早川書房のクリスティー文庫で読むことができます。全12編がひとつにまとめられ、短編集ならではの気軽さで手に取れる一冊です。
クリスティーの代表作をひととおり読み進めてきた人が、その作家像に思いがけない奥行きを見出すためにも、格好の入り口になってくれます。霧の向こうから現れる男の気配を、静かな夜にぜひ一度たずねてみてください。