ミステリーとしての読みどころ
ゴシック怪奇の物語を教える者の日常へ、その物語のほうがにじみ出してくる——現代英国のミステリ『見知らぬ人』は、そんな薄ら寒い反転から幕を開けます。教材のなかの恐怖と、いま自分が立っている現実。
その二つの境目が溶けはじめたとき、日常はどんな顔つきに変わってしまうのか。怪奇短編を専門に読み解いてきた教師が、その専門知識ごと事件の渦へ引きずり込まれていく。
頁をめくる手を止められないまま、読者もまた、慣れ親しんだ物語の言葉が現実にこぼれ出てくる不安を、主人公の肩越しに味わうことになります。
著者について
著者のエリー・グリフィスは、英国で広く読まれている人気ミステリ作家です。法医考古学者を主人公にしたルース・ギャロウェイ・シリーズや、エドガー・スティーヴンス警部と戦友マックス・メフィストが活躍するミステリ・シリーズで名声を築き、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)のメアリー・ヒギンズ・クラーク賞、英国推理作家協会(CWA)の図書館賞を受けてきた実力者。
長く筆を重ねてきたベテランが満を持して放ったのが本書で、新たな探偵役ハービンダー・カー警部を擁するシリーズの第1作にあたります。そして2020年、この一冊はMWA賞の最優秀長編賞に輝きました。
文芸ミステリの陰翳と、本格的な犯人当ての骨格。その両方を一身に備えた、キャリアの節目を飾る代表作です。
舞台となるのは、タルガース校という学校です。その旧館は、かつてヴィクトリア朝時代に名を馳せた伝説的な作家、R・M・ホランドの邸宅でした。
主人公のクレア・キャシディは、この校舎で英語を教えるかたわら、そのホランドを研究対象にしている教師。日々ゴシックの薄暗い文章と向き合い、恐怖がどう組み立てられるかを生徒に説いてきた人物です。
ところがある日、その足元が崩れます。クレアの親友でもあった同僚が、遺体で発見されるのです。
しかも遺体のそばには、"地獄はからだ"と記された謎めいたメモが残されていました。それはただの走り書きではありません。
ほかならぬホランドの短編に出てくる一節——つまりクレアが誰よりもよく知っている文章だったのです。自分が長く教えてきた物語の言葉が、なぜ、現実の死のかたわらに置かれているのか。
ここで読者の前に、ひとつの不吉な問いがせり上がってきます。これは、怪奇短編小説の見立て殺人なのか、と。
物語はこの問いを抱えたまま進み、語り手を替えながら連なっていきます。教師クレア、事件を追う刑事ハービンダー・カー、そしてクレアの娘ジョージア。
三者三様の声が交互に事態を照らし、その合間には、ホランドが書いた短編「見知らぬ人」そのものが作中作として挟み込まれていく。虚構のゴシックと現実の捜査が、頁の上で少しずつ距離を詰めていく仕掛けです。
教材として読んできた文章が、いつしか事件を読み解く鍵に見えてくる。そのとき読者は、クレアと同じ書物の前に立たされ、頁を繰る緊張を彼女とともに分かち合うことになります。
読みどころ
この作品の背骨は、あくまでフェアな犯人当てにあります。 版元が掲げた惹句は、端的に「この犯人は、見抜けない」。
しかもそれは、手がかりを隠しての勝ち逃げではありません。編集部の評によれば、手掛かりはこれ以上なくフェアに、むしろあからさまに提示されるのに、慎重に読めば読むほど真相から遠ざかってしまう——そういう厄介で贅沢な作りになっているのです。
雰囲気だけのゴシック風味で押し切る本ではなく、高難度の「犯人当て」を求める読者にこそ応える一冊。怖い話としての手触りと、パズルとしての手応えが両立している点が、本書がベテランの手練れと評される理由でしょう。
もうひとつの読みどころは、事件をひとつの声だけで語らせない構成にあります。教師クレア、刑事ハービンダー・カー、娘ジョージア——立場も年齢も違う三者の語りが順に前へ出て、同じ出来事に別々の光を当てていく。
加えて、ホランドの短編そのものが本のなかに置かれることで、物語は幾重にも入れ子になっていきます。文芸としての読みごたえと本格の設計図が、こうした形式のなかで無理なく編み合わされている。
読み手はそれぞれの声が見せる景色を突き合わせながら、どの記述を手掛かりと受け取るかを自分で測りつつ、頁を進めることになります。
こんな人におすすめ
相性の話をしておきます。学校とその旧館に漂う不穏、作中作の怪奇、じわじわと迫る恐怖といった雰囲気の濃さが、まず本書の大きな魅力です。
ですから、乾いたパズルだけを最短距離で解きたいという読者には、道具立てがやや装飾的に映るかもしれません。とはいえ手掛かりはフェアに開かれているので、雰囲気に浸りながらきちんと推理したい人には理想的な均衡と言えます。
物語に没入するうちに、いつのまにか自分も謎解きの当事者にされている——そんな読み心地を求める方に、迷わず薦められる作品です。
手に取るなら
入手は創元推理文庫版で、訳は上條ひろみ、巻末には大矢博子による解説が添えられています。ハービンダー・カー警部の物語はここから続いていき、続編として『窓辺の愛書家』『小路の奥の死』が邦訳で読めます。
まずは本書で、ゴシックと本格が溶け合う独特の一夜に足を踏み入れてみてください。