黄金期英国古典 1964
自慢の犯人写真を
見せる前に少佐は死んだ。
『カリブ海の秘密』アガサ・クリスティー

書評

カリブ海の秘密

退役軍人パルグレイヴ少佐の「殺人犯の写真」と急死。後の『復讐の女神』へ繋がるマープル後期作

カリブ海の秘密 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1964年 · 邦訳 2004年
目次

常夏の陽射しの下、デッキチェアに身をあずけた老婦人が、椰子の葉ずれと潮騒に包まれている――そんな絵に描いたような楽園の休暇に、ふと殺人の翳がさします。『カリブ海の秘密』は、安楽椅子探偵として名高いミス・マープルが、文字どおり南国のリゾートへ運ばれてしまうという、それだけで頬がゆるむ趣向の一作。

晩年のクリスティーが放った、後期マープルの代表作です。

作者はアガサ・クリスティー、原書の刊行は1964年。ミス・マープルを主役に据えた長編シリーズも終盤にさしかかったころの作品で、若き日の颯爽たる謎解きとはひと味ちがう、老いた名探偵の枯れた味わいが全篇に漂います。

物語はクリスティー自身が西インド諸島に遊んだ折の記憶に捧げられており、常夏の島の空気の描き方には、絵はがきをなぞったのではない実感がこもっています。安楽椅子探偵をわざわざ椅子ごと南の島へ連れ出すという発想の大胆さと、それを違和感なく成立させてしまう手際に、円熟の余裕がにじみます。

マープルという探偵の面白さは、村の暮らしのなかで培った人間観察の眼を、どんな事件にもあてはめてしまうところにあります。ふだんの舞台であるセント・メアリ・ミード村を遠く離れ、見知らぬ顔ばかりの南国のホテルに置かれても、その眼のはたらきは少しも鈍りません。

むしろ勝手のちがう土地だからこそ、彼女の「あの人はうちの村の誰それに似ている」という物差しが、いっそう鮮やかに冴えてくる。舞台を丸ごと入れ替えてなお探偵の本質を損なわないこの一作は、シリーズが長く愛されてきた理由をあらためて教えてくれます。

物語の入り口

甥のレイモンドの厚意で、病後の療養にと西インド諸島セント・オノレ島を訪れたマープル。滞在先はゴールデン・パーム・ホテル、絵に描いたような常夏のリゾートです。

暖かな陽気は持病のリウマチをやわらげてくれる。けれど、この楽園ではおよそ何も起こりません。

平穏そのものの一週間を過ごすうち、彼女はどこか物足りなさすら感じはじめます。そんな彼女の退屈をまぎらせたのが、同宿の退役軍人パルグレイヴ少佐でした。

話し好きの老人はマープルを相手に懐古談をとうとうと語り、やがて世にも奇妙な偶然の一件へと水を向けます。「殺人犯の写真を持っている」――そう言って財布に手を伸ばした、まさにその瞬間。

少佐の視線がマープルの肩越しに何かをとらえ、話はふつりと途切れてしまう。彼はとうとう、その話を語り終えることがありませんでした。

そして翌朝、少佐は死体となって発見されます。老人の急死は、はじめ穏当な病死として片づけられかけます。

誰もが陽気な島の日常へ戻ろうとするなか、ただ一人、セント・メアリ・ミード村の老婦人だけが、ほつれた糸をそっと手繰るように、その死に静かな疑いを抱くのです。

この立ち上がりの呼吸に、まずクリスティーの巧さが表れます。語りかけてくる相手が急に口をつぐみ、そのまま二度と口を開かない。

読者は少佐の話の続きを聞き逃したマープルと同じ地点に立たされ、宙づりのまま先を急がされることになります。

読みどころ

本作の魅力は、南国の陽光と、その下で静かに息づく悪意との落差にあります。 派手な物理トリックの応酬ではなく、人の癖や表情のわずかな綻びを読み解いていく推理の運びは、いかにも晩年のクリスティーらしく抑制が効いています。

マープルが「私の村にも、あれによく似た人がいた」と呟くたび、平穏な日常と剥き出しの悪意とを隔てる膜が、ふるりと震える。その手触りこそが読みどころです。

もう一つの見どころが、寝椅子から離れられない大富豪ジェイソン・ラフィエル氏との出会いでしょう。皮肉屋で口の悪いラフィエル氏と、物腰は柔らかいながら一歩も引かないマープル。

反目まじりのこの二人の掛け合いは、老練な話芸のように小気味よく、それでいて事件の核心をじわじわと抉っていきます。畑ちがいの二人がしぶしぶ互いを認め合っていくさまは、それ自体が一篇の人間喜劇。

そしてこの縁が、のちの『復讐の女神』へと運命的に手渡されていくことを思えば、シリーズを追う読者にとっては見逃せない一作でもあります。

こんな人におすすめ

華やかな不可能犯罪や、機械仕掛けのような大トリックを期待して開くと、この静けさは肩透かしに感じられるかもしれません。ここにあるのは、南の島の気だるい時間に身を浸しながら、老婦人の目を借りて人間の暗がりを覗く読書です。

名探偵に手綱をあずけ、その洞察がゆっくり像を結ぶのを味わいたい向きには、これ以上ないくつろぎの一冊になります。

手に取るなら

現在手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、永井淳の端正な訳文で読めます。ミス・マープルの長い活躍のなかでも後期を代表する一作であり、名うての皮肉屋ラフィエル氏が初めて姿を見せる作品でもあります。

この島での出会いが後年『復讐の女神』へと繋がっていくため、シリーズを順に楽しんでいる方にとっては、なおのこと押さえておきたい一冊。常夏の島の空気ごと味わう心づもりで、ゆっくりと頁を繰りたい逸品です。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1964
邦訳刊行年
2004
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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