黄金期英国古典 1965
何もかもが心地よい。
その完璧さを疑えるか。
『バートラム・ホテルにて』アガサ・クリスティー

書評

バートラム・ホテルにて

エドワード朝の佇まいを完璧に保つ老舗ホテル、その「完璧さ」にマープルが抱く微かな違和感

バートラム・ホテルにて 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1965年 · 邦訳 2004年
目次

古き良き英国が、そっくりそのまま一棟の建物のなかに保存されている――そんな場所に、セント・メアリ・ミードの老婦人が二週間の休暇で腰を落ち着けます。派手な事件がすぐさま立ち上がるわけではありません。

それでも、頁をめくる指先だけが少しずつざわついていく。アガサ・クリスティー『バートラム・ホテルにて』は、後期マープルもののなかでも、ひときわ手触りの変わった一冊です。

マープルが活躍する長編シリーズも、本作で第十作にあたります。全体で十二作が知られていますから、終盤にさしかかった円熟期の一編と言ってよいでしょう。

ただし舞台となるのは、いつものセント・メアリ・ミードではありません。彼女がこの静かな村を離れて事件に出会う機会は、シリーズを通してもごくわずか。

その数少ない「遠出」のひとつが、ロンドンの老舗ホテルを舞台にした本作なのです。1965年の刊行から時を経てなお愛され、ジョーン・ヒクソン主演で1987年に、ジェラルディン・マキューアン主演で2007年に映像化され、2004年にはラジオドラマにもなりました。

長く読み継がれ、繰り返し語り直されてきた一編であることが、その履歴からも伝わってきます。

物語の入り口

バートラム・ホテルは、エドワード朝の佇まいをそっくり今に残す、ロンドンの老舗です。重厚な木の調度、暖炉の前で供される非の打ちどころのないマフィン、ロビーを静かに行き交う白髪の紳士と気品ある淑女たち。

時計の針だけが半世紀前で止まってしまったかのような、完璧なまでに「昔のまま」の空間が、そこにあります。給仕は隅々まで行き届き、伝統的な内装には一分の隙もない。

訪れる客は、扉をくぐった瞬間に、失われたはずの時代へそのまま連れ戻されたような心地を味わいます。ミス・マープルは、甥のレイモンドからの贈り物として、この由緒あるホテルでの二週間の滞在に招かれました。

淡い過去の思い出をたどるように、彼女もまた、若き日の記憶を胸にこの宿を訪れた客のひとりだったのです。

ところが、磨き上げられた表面のすぐ裏側に、彼女はそこはかとない危うさを嗅ぎ取ります。あまりに完璧であることの、かすかな居心地の悪さ。

その予感を裏づけるように、ホテルの内と外ではいくつもの出来事が同時に進んでいます。各地で続発する大胆な強盗、滞在していたはずの牧師ペニーフェザーの不可解な失踪、そして冒険家として浮名を流してきたレディ・ベス・セジウィックと、その娘エルヴィラをめぐる微妙な距離感。

さらに、風変わりなひとりの宿泊客が、日付を取り違えたまま空港へ向かったことをきっかけに、事態は思いがけない方向へと転がりはじめます。やがて捜査に乗り出すのは、デイビー主任警部。

人当たりのやわらかな警部の視線と、ロビーの片隅から周囲を眺めるマープルの観察眼が、互いに気づかぬまま、ゆっくりと同じ一点へ寄っていきます。ホテルの優雅なざわめきの奥で、ばらばらに見えていた糸が、少しずつ手繰り寄せられていくのです。

読みどころ

本作の核にあるのは、「古き良きものは、本当に昔のままなのか」という問いそのものです。 完璧すぎるホテルという舞台そのものが、じわじわと読み手の足元を揺らしてきます。

マープルが感じ取る「かすかな違和感」に寄り添って読み進めるうち、居心地のよかったはずのロビーが、どこか薄気味悪く見えはじめる。その、空気がゆっくり変質していく感触こそが、この一編ならではの醍醐味です。

舞台の匂いや空気そのものを味わうミステリとして、屈指の完成度と言っていいでしょう。

マープルの出番は、決して多くありません。事件の中心で颯爽と推理を披露するというより、ロビーの隅から静かに周囲を見渡す位置に徹しています。

けれど、だからこそ「セント・メアリ・ミードの老婦人」ならではの観察眼が、華やかなロンドンのホテルという舞台の上でくっきりと際立ちます。老練な名探偵の眼にすべてを委ね、その足取りに導かれて謎の奥へ分け入っていく――そんな古典的な愉しみを、本作は静かに、しかし確かに満たしてくれます。

ホテルという閉じた空間の空気や、往時のロンドンの手ざわりを愛でながら読みたい人には、これ以上ない一冊でしょう。マープルものを一通り読み、少し毛色の変わった変化球を味わってみたい人にもよく合います。

反対に、章ごとに派手な事件が畳みかけてくるようなスピード感を第一に求めると、気配を静かに積み上げていく本作の歩みは、いくぶん物足りなく映るかもしれません。ただ、その静けさは欠点ではなく、この作品がねらって作り上げた味わいそのものです。

手に取るなら

現在手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、乾信一郎訳(2004年)です。ホテルのロビーに漂う紅茶と古い木材の匂いまで運んでくるような、しっとりとした訳文が、舞台の空気感を存分に堪能させてくれます。

長く続いたマープル・シリーズの終盤を飾る円熟の一編として、そして「場所そのものが孕む何か」を描いた舞台ミステリとして、静かに推せる一冊です。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1965
邦訳刊行年
2004
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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