きっとどこかに怪盗。
オリエント急行とパンドラの匣
走る列車の上で名探偵と怪盗が交差する、シリーズ枠を越えた欧州横断の一冊。
列車という乗り物は、ミステリと相性がよすぎるほど相性がいい。決まった軌道の上を走り、途中で降りることが難しく、乗客の顔ぶれは出発の時点で確定している。
しかもそれが国境をいくつもまたぐ長距離列車となれば、なおさらです。『オリエント急行とパンドラの匣』は、はやみねかおるの〈名探偵夢水清志郎事件ノート〉のなかで、その最たる例であるオリエント急行を丸ごと舞台にしました。
副題は「名探偵夢水清志郎&怪盗クイーンの華麗なる大冒険」。書き手が並行して育ててきた二つのシリーズが、正面から交差する巻です。
物語の入り口
ヨーロッパを横断するオリエント急行。それは赤い夢をあざやかに彩る、かずかずの大事件の舞台となってきた列車です。
そしていままた、古より伝わるパンドラの匣をめぐって、新たな事件が動きだそうとしています。開けてはならないと語り継がれてきた匣が、走りつづける車内にある。
それだけで、車輪の音が違って聞こえてきます。乗客のひとりひとりが匣のことを知っているのか、それとも知らないのか。
車内の視線が、少しずつ意味を持ちはじめます。
乗車するのは、名探偵夢水清志郎。そしてきっとどこかに、怪盗クイーン。
読者はその予感を抱えたまま、列車の中を見渡すことになります。物忘れの名人でものぐさでマイペースな探偵が、豪華な国際列車の乗客になっている。
その姿だけで、シリーズの読者は笑ってしまうはずです。一方で、どこにいるのかわからない怪盗の気配が、車内のあらゆる場所に薄く広がっている。
偶然か、はたまた運命か。二つのシリーズの主役が同じ列車に乗り合わせたことは、そう言い表すほかありません。
列車は古都イスタンブールを出て、花の都パリを目指します。読者は乗客のひとりとして、次々に変わる沿線の風景を眺めながら、名探偵の背中と、姿の見えない怪盗の影の両方を追いかけることになります。
旅程は長く、国境はいくつもある。その長さのぶんだけ、匣をめぐる緊張も引き延ばされていきます。
夜が来て、朝が来て、列車はまだ走っている。停まらない舞台の上で、探偵と怪盗の距離だけが測れないまま、旅は続きます。
読みどころ
名探偵と怪盗という、役割が正反対の二人が同じ事件に関わる構図が、いちばんの見どころです。 一方は起きたことを解き明かし、もう一方は起こす側に立つ。
同じ事件に対して、二人が別の方向から手を伸ばすわけで、どちらの視点で読み進めても見え方が変わってきます。閉じた空間で人が入れ替わり立ち替わりする列車ものの作法と、堂々と予告して奪う怪盗ものの作法。
文法の異なる二つの遊びが、一本の線路の上で同居しています。
オリエント急行という名前そのものが持つ響きも、この巻では大きな働きをしています。ヨーロッパを東西に結んだ長距離の国際列車は、そこに乗るという行為自体がすでに物語めいている。
豪華な寝台、次々に変わる沿線の風景、言葉の通じない駅での停車。子ども向けの棚に置かれる一冊が、その舞台をためらいなく選んでいることに、まず気持ちのよさがあります。
舞台が国から国へ移っていくぶん、景色が次々に変わって、400ページでも読む速度は落ちません。謎解きと一緒に、長い旅程そのものが土産になる一冊です。
こんな人におすすめ
夢水のシリーズを順に追ってきた読者はもちろん、怪盗クイーンの側から入ってきた読者にも開かれた巻です。旅そのものが物語を運んでくれるタイプの物語を探しているなら、候補に入れて損はありません。
逆に、ひとつの町、ひとつの家に腰を据えた謎解きを好む読者には、この移動の多さは少し慌ただしく感じられるかもしれません。
作品の背景
本書は2005年7月、講談社青い鳥文庫から刊行されました。400ページという分量は、シリーズのなかでも大型の部類です。
挿絵は村田四郎とK2商会の両名が並んでおり、それぞれのシリーズを描いてきた絵がひとつの巻に同席しています。装いの面でも、越境が徹底されているわけです。
二つの絵柄が並ぶページをめくるだけで、この巻の特別さが伝わってきます。
はやみねかおるという書き手は、怪盗という存在に長く執着してきました。1989年、世に出るきっかけとなった『怪盗道化師』からしてそうですし、「怪盗クイーン」はその関心が独立したシリーズへ育ったものです。
自作同士を本書のように交差させてしまう身軽さも、この人の持ち味でしょう。
手に取るなら
現行版は講談社青い鳥文庫。電子版は2016年から配信されており、古書を探しに行かなくても手に取れます。
二つのシリーズのどちらか一方しか知らなくても読めるように書かれていますが、両方を知っていれば、同じ列車に乗り合わせた二人を眺める楽しみは倍になります。海外を走る列車、伝説の品、名探偵と怪盗。
少年少女向けレーベルの一冊としては、ずいぶん豪勢な材料の揃え方です。
はやみねかおるについて
はやみねかおるは1964年、三重県伊勢市の生まれです。三重大学教育学部で数学を学び、1987年から小学校の教壇に立ちました。
クラスの本ぎらいの子どもたちを夢中にさせる本をさがすうちに、自分で書きはじめたのが作家としての出発点です。1989年、『怪盗道化師』が第30回講談社児童文学新人賞の佳作に選ばれ、翌1990年の刊行でデビューしました。
2000年に教職を離れてからは執筆に専念しています。
〈名探偵夢水清志郎事件ノート〉のほか、〈怪盗クイーン〉〈都会のトム&ソーヤ〉〈少年名探偵虹北恭助の冒険〉と、子ども向けの謎解きを三十年以上書き継いできました。別々のシリーズの人物や世界がつながり合う遊び心も持ち味です。
子どもたちが選ぶうつのみやこども賞を4度受け、2023年には第61回野間児童文芸賞特別賞を贈られています。
書誌情報
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