キャバレーで画家が撃たれた。
夜歩く
一通の奇妙な手紙が呼び込む惨劇。金田一耕助シリーズの長編第3作。
古神家の令嬢・八千代のもとに、奇妙な手紙が舞い込みました。我、近く汝のもとに赴きて結婚せん。
差出人の知れないその手紙には、佝僂の写真が添えられていました。それが、陰惨な殺人事件の発端でした。
『夜歩く』は、『本陣殺人事件』『獄門島』に続く、金田一耕助シリーズの長編第3作です。端正な前二作とは対照的に、戦前作ゆずりの妖しさと押しの強さで読ませる一編で、『八つ墓村』『悪魔の手毬唄』と同じく、「岡山編」の一作です。
物語の入り口
古神家の令嬢、八千代のもとに、一通の手紙が届きます。我、近く汝のもとに赴きて結婚せん。
差出人は、わかりません。そして手紙には、佝僂の写真が添えられていました。
求婚の言葉と、見知らぬ人物の写真。奇妙、という形容では、控えめなくらいです。
誰が、何のために、こんなものを送ってきたのか。令嬢の周囲に、不穏な影が差します。
その手紙が、陰惨な殺人事件の発端でした。手紙の差出人が誰なのか、写真が誰を写したものなのか、殺人事件がどう始まるのか。
結婚の申し込みという祝いごとの形をとった便りが、そのまま殺人の先触れになる。その取り合わせの気味悪さが、名家の屋敷にじわじわと沁みていきます。
手紙は、まだ始まりにすぎません。
金田一耕助シリーズの第3作ですが、前二作の端正さとは、手触りが違います。戦前の横溝正史は、妖しさと押しの強さで読ませる作家でした。
本作には、その戦前作ゆずりの色が濃く出ています。『本陣殺人事件』の密室、『獄門島』の見立てという、論理の側に寄った二作のあとで、横溝は妖しさの側に大きく振れました。
振れたからこそ、シリーズの幅が広がりました。
読者は、古神家の門前で、奇妙な手紙を受け取った令嬢の困惑を共有することになります。文面は、求婚とも予告ともつかない一行です。
「近く」という期限だけが切られ、いつ、誰が来るのかは書かれていない。そこへ見知らぬ人物の写真が添えられているのですから、受け取った側は、文面をどう読めばよいのかさえ定まりません。
古風な文語の一行が、古神家の空気をじわりと変えていきます。
読みどころ
端正な前二作とは違い、この一作は戦前作ゆずりの妖しさと押しの強さで、読む者をぐいぐい引っ張っていきます。 求婚の手紙と佝僂の写真、という発端からして、すでに妖しい。
令嬢に届く古めかしい求婚状という芝居がかった道具立てを、横溝は照れずに正面から使っています。金田一耕助シリーズの初期三作を並べると、本作だけが、明らかに別の色をしています。
その色を、横溝は意図して選びました。論理と妖しさ、二つの資質を持つ作家だからこその振れ幅です。
本格探偵小説への熱が最も高かった時期に、妖しさの側へ振れた一冊です。
もうひとつは、シリーズのなかでの位置です。岡山編のなかでも、本作は、疎開先で本格探偵小説への熱が最も高かった時期に、前二作と続けて書かれた一作です。
初期三作を並べて読むと、同じ熱が論理の側にも妖しさの側にも向かっていたことが見えてきます。
こんな人におすすめ
怪奇と幻想の香りが漂う本格を好む読者、横溝の戦前作の妖しさを知っている読者に向いています。金田一耕助シリーズを順に読んでいる人には、第3作で作風ががらりと変わる、その落差ごと楽しめるはずです。
前二作を読んでいなくても筋は追えますから、ここから入っても問題ありません。逆に、端正な論理だけを求める気分のときには、本作の妖しさは少し押しが強く感じられるかもしれません。
作品の背景
横溝正史は1945年春から岡山県吉備郡の村に疎開し、そこで終戦を迎えました。『夜歩く』の成立には、この疎開が関わっています。
駐留米兵が手放した洋書が古書店に積まれていた時代、知人が送り込んできた古書の一冊が、この作品につながった。作者自身が、そう語っています。
本格探偵小説への熱が最も高かった時期の産物です。疎開先の読書が、そのまま創作の火種になりました。
連載は1948年2月、雑誌『男女』で始まりました。誌名が『大衆小説界』へ変わったあとも続き、1949年12月に完結。
単行本は1950年5月、春陽堂から529ページで刊行されました。作者自身は、自選ベスト10に『夜歩く』を数えています。
ただし本人によれば、自分で選んだのは7位までで、その先は文庫の売れ行き順とのこと。7位までは、本人が本当に選んだ作品です。
角川文庫『金田一耕助ファイル7』は336ページです。
手に取るなら
現行版は角川文庫『金田一耕助ファイル7』。金田一耕助シリーズの第3作ですが、前二作を読んでいなくても支障はありません。
古神家に届いた奇妙な手紙を、令嬢とともに開いてみてください。佝僂の写真が、そこにあります。
妖しさの側の横溝を、存分に味わってください。
横溝正史について
横溝正史は1902年、兵庫県神戸市の生まれです。1921年、雑誌『新青年』の懸賞で一等に選ばれた「恐ろしき四月馬鹿」で世に出て、大阪薬学専門学校を卒業したのち、1926年に江戸川乱歩の招きで上京して博文館に入りました。
『新青年』などの編集長を務め、1932年に退社して作家専業となります。戦前は由利麟太郎を探偵役にした『真珠郎』などを書き、戦時中は岡山県に疎開しました。
戦後、金田一耕助が初めて登場する『本陣殺人事件』で1948年に第1回探偵作家クラブ賞の長編賞を受け、『獄門島』『八つ墓村』『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』と、金田一ものの長編を書き継いでいきます。1970年代には角川文庫での再刊と映画化が重なって、まったく新しい世代の読者を得ました。
1976年に勲三等瑞宝章を受け、1981年に没しています。
書誌情報
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