黄金期英国古典 1935
着陸したとき
乗客が一人死んでいた。
『雲をつかむ死』アガサ・クリスティー

書評

雲をつかむ死

パリ発ロンドン行き旅客機の客室で起きる事件。空のクローズドサークル本格。

雲をつかむ死 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1935年 · 邦訳 1978年
目次

パリの空港を離陸した旅客機が、英仏海峡の上空へさしかかろうとしています。後部客室に居合わせたのは、乗客十一名と乗務員、そしてたまたま同じ便に乗り合わせた一人の探偵。

着陸を待たずに、この閉じた空の一室で人が死にます。『雲をつかむ死』は、地上から切り離された飛行機の客室をまるごと一つの密室に見立てた、エルキュール・ポアロものの一編です。

物語の入り口

物語は、ポアロの座席から見える景色として静かに立ち上がります。九番の席にいる彼の位置は、乗り合わせた客たちを観察するのにこの上なく都合のよい場所でした。

右手には、向かいの男性に夢中になっている若い女性。前方の十三番席には、隠しきれないコカインの習慣を抱えた伯爵夫人。

通路をはさんだ八番席では、推理作家が一匹の蜂にしつこくつきまとわれて閉口しています。エンジンの低い唸りに包まれた客室で、乗客たちはそれぞれの時間を過ごしている。

飛びまわるその蜂を、やがて乗客の一人が始末しました。長い空の旅にありがちな、退屈まぎれのひとこまです。

ところがポアロの背後、最後部の二番席で、一人の老婦人がぐったりと座席に沈み込んでいたのです。マダム・ジゼル。

息はなく、その首すじには、細い針で刺されたような小さな痕が残されています。着陸が近づくまで、狭い客室に居合わせた誰ひとりとして、その異変に気づいていませんでした。

飛行中の機内、地上のどこにも逃げ場のない小さな空間で、乗客の目と鼻の先で人が死んでいた。容疑者となりうるのは、同じ後部客室にいた乗客十一名と乗務員だけ——文字どおり宙に浮いたクローズドサークルです。

同乗していたポアロは、ロンドン警視庁のジャップ警部と手を組み、着陸後の捜査へと乗り出していきます。

容疑者の顔ぶれもまた、この時代ならではの旅情をまとっています。発掘帰りらしい考古学者の若い夫妻、歯科医、女性帽子店に勤める従業員、そして先ほどの推理作家。

地上でなら決して同じ部屋に居合わせなかったであろう人々が、一枚の機体の中にたまたま押し込められていました。機内という限られた空間での彼らの振る舞いと、地上に降りたあとに一人ずつ明かされていく来歴。

クリスティーはこの二つの層を丁寧に並べ直し、空の上と地上とを行き来させながら、少しずつ推理を組み上げていきます。閉ざされた客室の内側だけでは絵が完成せず、乗客たちが地上で背負ってきたものが分かってはじめて、事件の輪郭が見え始めるのです。

読みどころ

本作の妙味は、航空旅行という当時最先端の舞台装置を、本格ミステリの論理へすんなり馴染ませてみせた手つきにあります。 一九三〇年代の旅客機の客室がどんな空間で、人々がそこでどう過ごしたのか。

その描写そのものが、現代の読者の目には新鮮に映るはずです。列車や船を舞台にした「移動する密室」の物語は黄金期にいくつも書かれてきましたが、そこへ「空」という真新しい一室を持ち込んだところに、本作ならではの手ざわりがあります。

読者はポアロの隣の席にでも座ったように、同じ客室の空気を吸いながら、限られた顔ぶれのなかから真相を探ることになります。発表当時の英国でも、舞台の目新しさとプロットの巧みさは好意的に受け止められました。

空の旅がまだ特別な体験だった時代の空気を、いまも本作は封じ込めています。

移動する密室の物語が好きな方には、まっすぐ薦められる一冊です。一九三〇年代ヨーロッパの旅の空気に浸りたい方にも、ゆったり味わっていただけるはず。

派手な活劇や息もつかせぬ緊迫を求めて開くと、その足取りはいくらか穏やかに感じられるかもしれません。けれど、その落ち着いたテンポこそが、狭い客室に居合わせた人々を一人ずつ見定めていく愉しみを支えています。

名探偵の推理にじっくり付き合いたい読者にとって、これほど寛げる舞台もそうありません。

作品の背景

本作はポアロシリーズの第十二長編にあたり、原書は一九三五年に世へ出ました。英国での題は『Death in the Clouds』、米国では『Death in the Air』。

前年に大陸横断鉄道を舞台とした『オリエント急行の殺人』を書いた著者が、翌年に選んだ舞台は空の上でした。そこから本作はしばしば"空中版"と呼ばれます。

航空旅行がまだ物珍しく、旅客機に乗ること自体が一つの経験だった一九三〇年代。その真新しい乗り物を、クリスティーは謎解きの舞台へと持ち込みました。

「古典的な密室もの」とも位置づけられる一冊です。

手に取るなら

現在手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫が入手しやすく、加島祥造による旧訳に加えて、田中一江による新訳版も刊行されています。長く読み継がれてきた作品だけあって版が整えられており、Kindle版も用意されているので、読み始めるのに手間はかかりません。

名探偵の推理に身をゆだね、雲の上の一室で起きた事件の行方を、ページをめくりながらゆっくり見届けたい夜に。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1935
邦訳刊行年
1978
ISBN-13
9784152099259
系譜
黄金期英国古典 / クローズドサークル · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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