戦後昭和国内 1978
人質は大富豪のお婆さん。
身代金は百億円。
『大誘拐』天藤真

書評

大誘拐

刑務所帰りの三人組が紀州の大富豪を狙う、身代金百億の誘拐劇。笑いと爽快感で押し切る第32回協会賞受賞作。

大誘拐 表紙画像
天藤真 東京創元社(創元推理文庫)1978年
目次

身代金は100億。桁を数え直したくなるこの数字が、まず読み手を笑わせにかかります。

天藤真『大誘拐』は、刑務所帰りの三人組が紀州の大富豪をさらおうと企てる物語です。題名に「大」の一字を冠するだけあって、狙う相手も、要求される額も、話の運びも、ことごとく並外れています。

その並外れぶりを、血の匂いではなく笑いと爽快感で押し通していくところに、この誘拐劇の身上があります。

物語の入り口

始まりは刑務所の雑居房です。そこで顔を合わせたのが、戸並健次、秋葉正義、三宅平太の3人でした。

塀の中で知り合った男たちは、出所するや、次の仕事の下調べにとりかかります。狙うのは営利誘拐。

小口の盗みではなく、いきなり人ひとりの身柄と大金を天秤にかける大仕事です。

標的に選ばれたのは、紀州随一の大富豪、柳川家の当主とし子刀自。刀自とは、家を取り仕切る年配の女性を敬って呼ぶ古い言葉です。

名前の後ろにこの敬称が添えられるだけで、相手がただの金持ちではなく、土地に根を張った一族の頂点にいる人物だとわかります。紀州という土地の広がりと、旧家の当主という重み。

その二つを背負った相手に、出所したばかりの三人組が手を伸ばす。企ての大きさと実行する側の身軽さとの落差が、読み始めてすぐに可笑しみを帯びてきます。

そして、身代金の額も桁違いです。100億という数字は、それだけで冗談のような響きを持っています。

三人組の懐具合と並べてみれば、なおさらです。百億の札束がどれほどの嵩になるのか、思わず頭の中で積み上げてみたくなる数字でもあります。

雑居房から出てきたばかりの三人と、紀州随一の旧家を束ねる刀自。誘拐する側とされる側の格が、最初から大きく食い違っています。

物語は三人組が下調べに動き出すところから幕を開け、読み手はこの小さな犯罪集団のすぐ後ろについて、紀州の大富豪という獲物に近づいていきます。三人がどこまで本気で、どこまで無謀なのか。

その見極めがつかないうちに、誘拐劇はもう動き出しています。

読みどころ

読みどころは、桁外れの企てを湿っぽさなしに運んでいく、語りの軽さと勢いにあります。

誘拐を題材にしながら笑いを主役に据えるという組み合わせ自体が、この作品の大胆さです。刑務所帰りの三人組が紀州一の富豪に挑むという発端の顔ぶれからして、深刻さより可笑しさの側に足場を置いた物語であることが伝わってきます。

もうひとつは、評価の重なり方です。日本推理作家協会賞の選考を通り、「週刊文春」の20世紀国内部門で首位に立ち、さらに映画と舞台へ渡っていった。

賞、ランキング、映像化と、別々の場で別々の物差しに測られながら、どこでも高い位置に置かれてきたわけです。

血なまぐさい事件や、読後にずしりと残る重さを求めて開くと、拍子抜けするかもしれません。けれども、読み終えたあとに残る爽快感は、その軽さと表裏一体のものでしょう。

こんな人におすすめ

犯罪を扱う小説でも、読み終えて気持ちが沈むものは避けたい、という人にまず向きます。刑務所帰りの男たちが大それた計画に挑む、という設定そのものに心が動く人にも楽しめるはずです。

岡本喜八の映画版を観たことがあって、原作はまだという人が紙の上で改めて出会い直すのもよいでしょう。逆に、緻密な論理だけを追いかけたい人には、笑いの比重が大きく映るかもしれません。

作品の背景

『大誘拐』は天藤真が六十代に入ってから書き上げた作品で、1978年に刊行され、翌1979年に第32回日本推理作家協会賞を受けました。「週刊文春」ミステリーベスト10では20世紀国内部門の第1位に選ばれ、『東西ミステリーベスト100』2012年版でも国内7位に入っています。

1991年には岡本喜八監督、北林谷栄主演で映画化され、2024年には全国13か所で舞台も上演されました。紙の上の誘拐劇が、スクリーンと舞台へ——小説の外にまで読み手の輪を広げてきた作品です。

手に取るなら

いま手に取るなら、東京創元社の創元推理文庫版です。〈天藤真推理小説全集〉にも収められていて、巻末の解説は吉野仁が担当しています。

天藤真の作品は同じ創元推理文庫にまとまって入っているので、気に入れば長編第一作の『陽気な容疑者たち』などへ遡っていく道も開けています。雑居房の三人と紀州の刀自、桁の外れた誘拐劇の顔ぶれに、文庫で会いに行ってみてください。

天藤真について

天藤真は1915年、東京に生まれ、1983年に亡くなりました。東京帝国大学国文科を卒業して同盟通信の記者となり、戦後は千葉県で農業を営みながら、千葉敬愛短期大学の講師も務めています。

推理小説の書き手として歩み出したのは40代も後半になってからでした。1962年、短編「親友記」が宝石賞の佳作に入り、同じ年に『陽気な容疑者たち』が第8回江戸川乱歩賞の最終候補に残ります。

この長編は大下宇陀児らの推薦を得て翌1963年に刊行され、同じ年には短編「鷹と鳶」で宝石賞を受けました。

寡作ながら、ユーモアとウィットに富んだ文体と、読み手の意表を突く状況設定で知られる作家です。1979年には『大誘拐』で第32回日本推理作家協会賞(長編部門)を受賞しました。

ほかに『殺しへの招待』『遠きに目ありて』『炎の背景』などの作品があります。

書誌情報

出版社
東京創元社 / 創元推理文庫
刊行年
1978
ISBN-13
9784488408091
系譜
戦後昭和国内

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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