世間の言う極悪人たち。
パンとペンの事件簿
大正期に実在した文章の請負集団「売文社」がペンの力で厄介ごとを片づける四篇。
「新聞雑誌の原稿に、翻訳、暗号文の解読。文章に関する依頼なら何でも引き受けます」。そんな看板を掲げた会社が、大正の日本に実在しました。
名を売文社といいます。柳広司『パンとペンの事件簿』は、この実在の集団をそのまま探偵役に据えた四つの短編です。
文章の職人たちが、ペン一本で厄介ごとを片づけていく。2024年11月に幻冬舎から刊行されました。
物語の入り口
語り手の「ぼく」は、ある日、暴漢に襲われます。そこを救ってくれたのが、風変わりな人々でした。
「文章に関する依頼であれば、何でも引き受けます」という変わった看板を掲げる会社、その名も売文社の人たちです。ところが、社長の堺利彦さんをはじめ、この会社の人間は皆が皆、世間が極悪人と呼ぶ社会主義者だといいます。
そんな怪しい集団を信じていいのか。悩む「ぼく」に、堺さんは、ある方法で暴漢を退治してやると持ち掛けます。
世間が極悪人と呼ぶ人たちから、暴漢を退治してやると持ち掛けられる。信じていいのかという「ぼく」の迷いは、そのまま読む側の迷いにもなり、巻頭の一篇はその迷いを抱えたまま動き出します。
社に持ち込まれる依頼は、暗号解読から人攫いグループの調査まで。世間から白い目を向けられ、金もない。
それでも日々やっているのは原稿書きと翻訳で、そこへ舞い込む厄介ごとを、「売文社一味」はペンの力で解決していきます。不条理な世の中に、腕力ではなく知恵とユーモアで立ち向かう。
その構えが、四篇を貫いています。
暗号にせよ、怪しい文書にせよ、彼らが向き合う対象はどれも「書かれたもの」です。文章を商う人たちが、文章を読み解いて事件に当たる。
探偵役の職業と、推理の手続きが、この連作ではぴたりと重なっています。捜査の専門家でもなければ、腕っぷしに頼るわけでもない。
机に向かって紙の上の言葉と向き合う人たちが、そのままの姿勢で事件の前に座る。その取り合わせの妙が、設定の段階ですでに効いています。
読みどころ
読みどころは、探偵役が文章の職人であるという設定が、思いのほかよく効いているところにあります。 書き手の側から文章を読み直すという作業が、そのまま推理になる。
原稿と翻訳で食べている人たちが、同じ机の上で、事件にまつわる文書にも向き合う。腕力も後ろ盾も持たない一味にとって、頼れるのは商売の腕だけです。
暗号解読は、いかにも文章の職人向きの仕事です。人攫いグループの調査となると、ペンで何ができるのか、すぐには見当がつきません。
そこをどう捌くかが、この連作の見せ場です。
もう一つは、明るさです。主義主張を持った人々を主役にしながら、物語を動かしているのは、常に目の前の依頼と締め切りのほうです。
白い目を向けられ、金に困りながらも机に向かい、原稿を書き、報酬を受け取り、ついでに事件を解く。重くなりようのある題材が、軽々と運ばれていきます。
世間が極悪人と呼ぶ社会主義者たちが、持ち込まれた依頼には律儀に応え、ペン一本で片をつけていく。その取り合わせのおかしさが、四編全体の調子を決めています。
書名の「パンとペン」は、食い扶持と文筆という、どちらも手放せない二つを指しています。史実の売文社には「ペンはパンより弱し」という標語があったと伝わります。
居直りとも聞こえるこの言葉が、そのまま連作の調子になっています。
作品の背景
近年の柳広司は、実在の人物に材を取った作品を書き継いでいます。大正期に実在した売文社を題材にしたこの連作も、その流れのなかにあります。
ただし調子は軽く、明るく、ユーモアがある。実在の集団を描きながら、読み味は肩の凝らない推理ものです。
電子書籍でも読め、朗読版も出ています。
手に取るなら
現行版は幻冬舎の四六判、232ページ。短編四本という分量で、休日の午後にまとめて読み切れます。
歴史ものは身構えるという人にこそ、最初の一冊として勧めやすい作品です。『太平洋食堂』を読んだ人にとっては、同じ堺利彦との再会にもなります。
順番はどちらからでも構いません。明るい連作推理を好む人、大正という時代の空気に軽い足取りで触れてみたい人に向いています。
反対に、長編一本でじっくり組み上げられた謎を読みたい気分のときは、短編四本という軽さが物足りなく映るかもしれません。暴漢に襲われた「ぼく」が、風変わりな人たちに助けられるところから、この連作は始まります。
柳広司について
柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。
同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。
初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。
2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。
書誌情報
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