犯人の名は書かれない。
どちらかが彼女を殺した
二人の容疑者、最後まで明かされない真相。犯人の名を作中に書かない挑戦状型の本格。
妹が殺され、その死は自殺に見えるよう細工されていました。警察官の兄が自分で絞り込んだ容疑者は、妹の親友と、妹のかつての恋人の二人です。
『どちらかが彼女を殺した』は、その二人のどちらが犯人なのかを作中に直接は書かないまま幕を閉じる、東野圭吾の長編です。この形は、刊行から四半世紀を経た新装版でも変わっていません。
加賀恭一郎シリーズの第3作にあたります。
物語の入り口
妹が死にました。自殺に見えるように偽装されていましたが、殺されたのです。
兄は警察官でした。妹の死を自殺として片づけることを、彼は受け入れません。
独自に調べを進め、容疑者を二人まで絞り込みます。警察の組織としての捜査ではなく、兄としての調べです。
一人は、妹の親友。もう一人は、妹のかつての恋人。
兄の前に並ぶのは、友として、恋人として、それぞれ別の場所から妹の暮らしに関わってきた二人です。親友か、元の恋人か。
問いは、その一点に絞られています。二人のあいだで、読者の目は行ったり来たりすることになります。
警察官である兄が、妹を殺した犯人を自分の手で見つけようとする。その動機は、職業上のものではありません。
身内を失った人間の、私的な執念です。二人の容疑者を前に、兄は独自の捜査を進めていく。
妹を殺した相手を、警察官としてではなく兄として突き止めようとする。その立場の危うさも、この物語の緊張のひとつです。
職務として命じられた捜査ではない以上、兄が一歩踏み込むたびに、その判断はすべて彼自身の責任として返ってきます。
読者は、兄と同じ位置に立たされます。二人のうち、どちらが妹を殺したのか。
手がかりは本のなかに置かれています。ただし、答えは書かれていません。
読み終えたとき、読者は自分で結論を出さなければなりません。犯人を当てにいく読み方が、この本ではそのまま読書の骨格になっています。
読みどころ
この小説の核にあるのは、妹を殺したのが二人のどちらなのかを、推理だけで決めさせる形そのものです。 ミステリの読者は、たいてい最後に答え合わせをします。
本作には、その答え合わせのページがありません。二人の容疑者と、兄の捜査と、置かれた手がかり。
そこから先は、読者の仕事です。二人のどちらかに傾きかけるたび、もう一方の可能性が消えずに残ります。
その揺れを自分の推論で止めるまで、読書は終わりません。兄が一つずつ確かめていく事実を、読者も同じ順で受け取り、同じ材料で考えることになります。
手がかりは作中に置かれているのに、答えを告げる一行だけがない。その欠けた一行を、読者が自分の推論で埋めにいきます。
もうひとつは、考え抜く読書そのものの手応えです。答えが書かれていない以上、読み終えても本を閉じられない。
もう一度ページを戻り、条件を並べ直し、自分の結論を確かめる。読書のあとに、もう一度の読書が待っている。
照らし合わせる相手は、一度目に読んだときの自分の考えです。一冊で二度読む本、と言ってもいいでしょう。
読者自身が探偵になる本です。
こんな人におすすめ
自分の手で犯人を突き止めたい読者、条件を一つずつ並べ、筋の通る答えを自分で探すことが好きな読者に、まず向いています。読み終えたあと、誰かと答えを突き合わせたくなる本ですから、読書仲間がいる人にはなおさら。
加賀恭一郎シリーズを順に読んでいる人には、第3作としてそのまま次に開く本になります。逆に、最後にきちんと答えを示してほしい人には、この本の形は少し意地悪に感じられるかもしれません。
作品の背景
本作はデビューから10年あまり後の長編で、1996年6月に講談社ノベルスから刊行されています。1999年5月に講談社文庫、2023年6月には文庫の新装版が出ました。
加賀恭一郎シリーズとしては第3作で、前作は『眠りの森』。同じ1996年には双葉社から『悪意』も出ていて、シリーズ中期の一冊にあたります。
1999年に刊行された『私が彼を殺した』は、本作と対になる姉妹編です。初版の刊行直後には、「結局、犯人はどちらなのか」という問い合わせが講談社の編集部に多く寄せられました。
文庫化以降の版には袋綴じの解説が付されてきましたが、それでも、犯人の名が作中に直接書かれない形は保たれたままです。
手に取るなら
現行版は講談社文庫、または2023年の新装版。文庫版には袋綴じの解説が付いていますが、開くのは自分の結論を出してからにしてください。
シリーズの第3作ですが、本作単独で筋は追えます。妹の親友か、かつての恋人か。
答えは本のなかにあり、しかし書かれてはいません。自分の目で、見つけてください。
そして見つけたら、同じ本を読んだ誰かと、答えを突き合わせてみてください。
東野圭吾について
東野圭吾は1958年、大阪市生野区の生まれです。大阪府立大学工学部電気工学科を卒業し、日本電装(現デンソー)の技術者として働きながら推理小説を書き、1985年に『放課後』で第31回江戸川乱歩賞を受けてデビューしました。
翌年に会社を辞めて上京し、専業作家になっています。
長く大きな話題作に恵まれない時期が続きましたが、1998年の『秘密』が広く読まれ、翌年の第52回日本推理作家協会賞(長編部門)を受賞しました。2006年には『容疑者Xの献身』で第134回直木賞と第6回本格ミステリ大賞を受けました。
刑事・加賀恭一郎と物理学者・湯川学のシリーズを軸に、学園もの、本格の謎解き、サスペンス、ミステリの約束事を笑うパロディまで幅広く書き、2023年には著作の国内累計発行部数が1億部を超えています。同じ年に菊池寛賞、2024年に日本ミステリー文学大賞を受け、2026年7月に68歳で亡くなりました。
書誌情報
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