獄中殺人の相棒になる。
トーキョー・プリズン
記憶を失った囚人と元軍人の協力が、獄中の殺人を追う時間に緊張を刻みます。
刑務所の内側で、一人の男が記憶を失っています。もう一人の男が、その記憶を取り戻すために外からやってきます。
柳広司『トーキョー・プリズン』は、巣鴨プリズンの囚人・貴島悟と、彼の記憶を取り戻す任務を命じられた元軍人フェアフィールドとが、獄中で起きた殺人を追う長編です。2006年に刊行され、2009年に角川文庫に収められました。
巣鴨プリズンという場所の名前が、この長編の時代を告げています。
物語の入り口
フェアフィールドは元軍人です。彼に与えられた任務は、巣鴨プリズンにいる囚人、貴島悟の記憶を取り戻すこと。
捜査でも尋問でもなく、一人の囚人が失ったものを、外から来た男が回復させる。なぜその任務なのか、なぜこの囚人なのか——その答えを持たないまま、物語は動き出します。
記憶を失った人間に、何を、どうやって思い出させるのか。元軍人という肩書きと、記憶を取り戻させるという仕事とは、すぐには結びつきません。
任務の性格と、それを命じられた男の経歴とのずれが、最初から置かれています。
時を同じくして、プリズンの内側で殺人が起きます。閉ざされた施設のなかの死。
外の世界から来たフェアフィールドは、事件を追う立場に置かれます。そして、彼が協力を仰ぐ相手が、貴島です。
記憶を取り戻させるべき囚人が、同時に、殺人を考える相棒になる——任務と捜査が、一人の男を介してつながるのです。
読者が座るのは、フェアフィールドのすぐ隣です。目の前にいる男は、自分の過去を覚えていない。
その男に、いま起きた殺人について意見を求める。相手が何を覚えていて何を覚えていないのか、相手は自分をどう見ているのか。
任務の対象と捜査の協力者という二つの立場が、一人の囚人の上で重なっているために、会話のひとつひとつに二重の意味が宿ります。記憶のない男と、記憶を戻しに来た男。
この組み合わせのまま、獄中の殺人は進んでいきます。
読みどころ
読みどころは、任務の対象と捜査の協力者という二つの立場が、一人の囚人の上で重なるところにあります。
記憶を取り戻させる相手に、いま起きた殺人の推理を頼む。この構図の面白さは、二人の関係が最初から対等でないことにあります。
フェアフィールドは外から来た者で、貴島は閉じ込められた者。フェアフィールドは任務を持ち、貴島は過去を持たない。
それでも事件を考えるときには、二人は同じ材料を前に並んで座ります。立場の差と、考える場の対等さ。
そのずれが、獄中の会話に緊張を生みます。推理の材料は同じでも、それを見る目の条件が違う。
記憶のある側と、ない側。この非対称が、ふつうの探偵と助手の関係とは別の緊張を作ります。
もうひとつは、場所の力です。巣鴨プリズンという名前は、それだけで時代を告げます。
外から助けの来ない閉ざされた施設であることに加えて、そこに入れられている人々がただの囚人ではないという含みを、名前が先に運んでくる。柳広司は実在の人物を借りる作家として出発しましたが、本作では人ではなく場所を借りました。
名前の持つ重さを、探偵役ではなく舞台の側に置いたことで、殺人の謎に歴史の影が差します。
推理の応酬を軽快に楽しむ本を期待して開くと、獄中という舞台と記憶という主題の重さに、足取りが鈍るかもしれません。けれども、閉ざされた場所で二人の男が向き合う時間そのものを味わえる読者には、その重さこそが手ごたえになります。
作品の背景
デビューからの数年、柳広司が探偵役や語り手に選んできたのは、シュリーマン、ダーウィン、オッペンハイマーといった、歴史に名前の残る実在の人物でした。この作品の主役二人は、その顔ぶれとは違います。
フェアフィールドも貴島悟も、歴史に名前の残る人物ではありません。
代わりに実在の名前を背負っているのは、場所のほうです。巣鴨プリズン。
その名前だけで、時代と、そこに入れられた人々の種類とが、おのずと浮かびます。説明を足さなくても、読む側がすでに知っている名前です。
実在の人物から実在の場所へ。借りてくるものを人から場所に替えた、この作家の転換点にあたる一冊と読めます。
2009年に『ジョーカー・ゲーム』を出す柳広司の、その3年前の一歩です。
手に取るなら
現行版は角川文庫、2009年刊です。2006年の単行本から3年で文庫に入りました。
柳広司の作品を実在人物ものから読んできた人には、借りるものが人から場所へ移る地点として、『新世界』のあとに置くと流れがつながります。単独でも筋は追えますし、ここから入っても差し支えありません。
記憶を失った囚人の向かいに、記憶を戻しに来た男が座る。二人が初めて向き合うところまで読み進めれば、あとは二人の会話が連れていってくれます。
柳広司について
柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。
同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。
初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。
2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。
書誌情報
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