現代国内 2007
とつぜん怒り出す変人と、
ひっそり謎を解く中学生。
『漱石先生の事件簿 猫の巻』柳広司

書評

漱石先生の事件簿 猫の巻

漱石の『吾輩は猫である』の世界を借りて、変人だらけの家の小さな謎を解く連作。

漱石先生の事件簿 猫の巻 表紙画像
柳広司 KADOKAWA(角川つばさ文庫)2007年
目次

中学二年生の「僕」が、英語の先生の家で暮らしはじめます。柳広司『漱石先生の事件簿 猫の巻』は、夏目漱石『吾輩は猫である』の世界を借りて、変人だらけの家で起こる小さな「事件」を「僕」がひっそりと解いていく連作です。

2007年に若い読者向けの叢書で世に出て、角川文庫を経て、現在は角川つばさ文庫に収められています。題名に「猫」とありますが、謎を解くのは猫ではなく、中学生です。

物語の入り口

先生は、突然怒り出したり、いきなり驚くようなことを言ったりする、たいそう厄介な人物です。「僕」の言い方を借りれば、ものすごくメーワクな人。

その家で暮らしはじめた中学二年生の毎日は、刺激には事欠きません。おまけにこの家へ集まってくるのは、先生といい勝負の変人ばかりです。

客が来て、先生と言い合いをして、帰っていく。それが日常です。

「僕」にとって、この家の暮らしは初めてづくしです。中学二年生が他人の家で寝起きし、家主が先生で、客が変人ばかり。

落ち着ける時間のほうが少ない毎日です。

そんな顔ぶれが出入りする家には、当然のように小さな騒ぎが持ち込まれます。「僕」は、その騒ぎを「事件」と呼び、誰にも気づかれないように解いて回ることになります。

名乗り出て手柄にするわけではなく、あくまでひっそりと。大人たちが騒いでいるあいだに、中学生の「僕」だけが、静かに筋道を追っています。

下敷きになっているのは、夏目漱石の『吾輩は猫である』です。あの作品に出てくる家と、そこへ集まる人々のにぎやかさを借りて、ミステリの物語に組み直してあります。

もとの小説では、一匹の猫が人間たちを眺めていました。本作では、その眺める役を中学生が引き受けています。

猫は眺めるだけでしたが、中学生は考えます——なぜそうなったのか、と。日常のなかの小さな不可解を拾い上げて、一つずつ答えを出していく。

派手な事件は起きません。連作の一話ずつが、その日その日の騒ぎの顛末です。

読みどころ

この本の読み心地を決めているのは、事件の大きさではなく、家のなかの空気です。 先生の癇癪、客たちの言い合い、それを聞いている中学生。

変人たちが真顔で言い争う可笑しさを土台に据え、そこに謎解きの筋を一本通しています。笑いながら読んでいるうちに、いつのまにか手がかりが揃っている——そういう作りです。

語り手の年齢も、読み心地に効いています。「僕」は中学二年生で、家のなかでは子どもの側です。

大人たちの議論に口を挟む立場になく、ただ聞いている。聞いているだけの人間は、部屋のなかでいちばんよく見えている人間でもあります。

その聞いている時間が、そのまま観察の時間になっています。「ひっそりと」解決する、という言い方が、この語り手の立ち位置をよく表しています。

誰かに頼まれて解くのではなく、目の前の不可解を放っておけないから解く。中学生の探偵には、それで十分な動機です。

解いたあとで誰かに褒められる場面もなく、次の日にはまた別の騒ぎが始まります。

漱石を読んでいなくても差し支えありません。もとの小説を知っている人には、あの家の空気がそのまま移されている楽しみがあり、知らない人には、変人だらけの家に一人の中学生が放り込まれる話として、そのまま読めます。

むしろこちらから漱石に入る、という順番もあります。角川つばさ文庫という現行版の体裁は、その順番のためにあるように見えます。

作品の背景

2001年に第12回朝日新人文学賞を受けた『贋作「坊っちゃん」殺人事件』は、題名のとおり漱石の『坊っちゃん』を下敷きにしており、柳広司と漱石の縁はデビューの年から続いています。2005年には『吾輩はシャーロック・ホームズである』で、ロンドン留学中の漱石本人を主役にしました。

本作はその縁を三度たどり直したもので、今度は『吾輩は猫である』の世界そのものを舞台に選んでいます。

刊行の道筋も少し変わっています。最初に本になったのは2007年、理論社が若い読者に向けて出していた「ミステリーYA!」という叢書の一冊としてでした。

2010年11月に角川文庫へ入って320ページの一冊になり、2018年10月には、Akitoの挿絵を添えた272ページの角川つばさ文庫版が出ました。児童向けの棚と大人向けの棚の両方を通ってきた本です。

パスティーシュ、つまり文体模写という位置づけの作品で、口調や言い回しまで含めて、もとの小説の空気を移した作りになっています。

手に取るなら

現行版は角川つばさ文庫、272ページ、Akitoの挿絵つきです。角川文庫版(320ページ)も流通しています。

殺人事件の重さや大がかりな仕掛けを求めて読む本ではありません。変わり者たちの言い合いを眺めながら、小さな謎がひとつずつほどけていくのを追いかける。

そういう時間を楽しむ本です。漱石の名前に構えてしまう人こそ、つばさ文庫の軽い体裁から入ってみてください。

中学二年生と一緒に、先生の家の玄関をくぐるところから。

柳広司について

柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。

同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。

初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。

2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。

書誌情報

出版社
KADOKAWA / 角川つばさ文庫
刊行年
2007
ISBN-13
9784046318398
系譜
現代国内 / 連作短編

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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