殺されたのは人間だった。
シートン探偵記
『動物記』の著者シートンその人が探偵役を務め、動物の習性から真相を読み解く連作七編。
足跡の深さ、羽根の散り方、糞の乾き具合。野外で動物を追う人は、そうした痕跡から昨夜の出来事を組み立てます。
柳広司『シートン探偵記』は、『シートン動物記』の作者アーネスト・T・シートンその人を探偵役に据え、動物たちの行動から真相を見抜かせる連作七編です。2006年に『シートン〈探偵〉動物記』の題で世に出て、現在は文春文庫に収められています。
痕跡を読む人の目を、そのまま事件に向けさせたらどうなるか——この一冊の発想は、そこから出発しています。
物語の入り口
舞台は20世紀前半の北米です。1940年、シートンは自叙伝を刊行しました。
その本を読んだ一人の新聞記者が、老いた博物学者のもとを訪ねます。自叙伝に書かれなかった話を聞かせてほしい——記者のその求めから、連作は動きだします。
シートンが語るのは、動物を追って野を歩いた日々に出くわした、いくつかの事件です。
第一編「カランポーの悪魔」は、狼王ロボの追跡を扱います。『シートン動物記』の冒頭を飾る、あの狼です。
牧場を荒らす巨大な狼を仕留めようと、シートンが罠と知恵を尽くしていた、そのさなかに殺人が起きます。狼を追っていた人の目が、人の死へ向けられることになります。
もう一編では、盗難の疑いをかけられたカラスが出てきます。人間なら弁明のしようもあるところを、鳥は口をきけません。
カラスの側に立って、そのふるまいを読める者が要ります。
語りの枠にも、少し注意を払っておく価値があります。1940年のシートンは80歳。
事件はすべて、若い日の出来事として、年老いた本人の口から語られます。記者は聞き手であり、本を読む側にとっての代理人でもあります。
わからないところで質問を挟み、老人がそれに答える。その往復が、そのまま手がかりの提示になっています。
野外で見たものを記者に説明する老人の言葉が、読む側にとっては推理の材料です。
七編の題は、「カランポーの悪魔」「銀の星」「森の旗」「ウシ小屋密室とナマズのジョー」「ロイヤル・アナロスタン失踪事件」「三人の秘書官」「熊王ジャック」。題の並びを眺めるだけで、動物記の読者には懐かしい名前が見えてきます。
どの一編も、記者が訪ねてきて老人が語り、話が終わればひと区切りつく分量です。一話ずつ読み切れる作りなので、子どもの頃に動物記を読んだ記憶を頼りに、気の向いた題から開いても差し支えありません。
読みどころ
読みどころは、動物の習性そのものが推理の材料として働くところにあります。 人の証言は都合しだいで形を変えますが、獣や鳥のふるまいは変わりません。
狼はこう歩き、カラスはこう隠す。現場に残された動物側の手がかりを一つずつ拾い上げる手つきは、博物学者がふだん野外でやっていることと同じです。
探偵の仕事と観察者の仕事が、ここでは区別なく重なっています。
その手がかりを扱う人物として、シートンは絶妙な選択でした。動物の側に立ち、動物の言い分を代弁できる探偵。
人間の側だけを見ていては届かない場所へ、この探偵は動物の目を借りて辿り着きます。心優しい名探偵、という形容が似合う人物でもあります。
事件を解きながら、動物を責めない。その姿勢が、七編を通して一貫しています。
もっとも、動物記の知識は要りません。ロボの名前を聞いたことがある、その程度で十分に足ります。
必要な習性は作中で丁寧に語られ、記者と一緒に聞いていれば、読む側にも手がかりが揃うようにできています。動物記を知らない人には博物学の入り口として、知っている人には、あの本の作者に再会する場所として——二通りの読み方が用意されている一冊です。
作品の背景
デビューからの数年、柳広司が探偵役や語り手に選んできたのは、シュリーマン、ソクラテス、ダーウィン、そして漱石といった、歴史に名前の残る実在の人物です。シートンも、その列に加わる一人です。
ただし顔ぶれのなかで、シートンには少し違う持ち味があります。考古学者や哲学者が相手にするのは人間ですが、シートンが一生をかけて観察したのは動物でした。
人間の嘘や思惑ではなく、獣と鳥のふるまいを読んできた人です。刊行の経緯は少し込み入っていて、2006年5月に光文社から『シートン〈探偵〉動物記』として出たあと、2009年3月に光文社文庫へ入り、2015年7月に文春文庫へ移るときに『シートン探偵記』と改題されました。
手に取るなら
現行版は文春文庫、336ページです。巻末の解説は動物学者・今泉吉晴が書いています。
旧題『シートン〈探偵〉動物記』で探すと光文社版に当たりますが、中身は同じ連作です。全七編はどれも一話ずつ読み切れる長さで、動物好きの人に薦めやすい本でもあります。
狼、カラス、熊。題に並ぶ名前に覚えがあるなら、それだけで入り口は開いています。
1940年、老博物学者の家の扉を叩く記者の後ろに、まず並んでみてください。
柳広司について
柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。
同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。
初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。
2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。
書誌情報
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