手元には酒しかない。
百万のマルコ
ジェノヴァの牢で語られるマルコの土産話を、囚人たちが寄ってたかって解く連作集。
牢屋は、時間だけがたっぷり余っている場所です。13世紀末、イタリア半島のジェノヴァ。
退屈をもてあます囚人たちのところへ、ある日、新入りが放り込まれます。“マルコ・ポーロ”を名乗るその男は、聞いたこともない土地の、世にも不思議な物語を語りはじめます。
柳広司『百万のマルコ』は、その噺を囚人たちが寄ってたかって解く連作集です。2007年に文庫書き下ろしとして出て、2022年に新作一編を加えた集英社文庫版が出ました。
物語の入り口
マルコの噺には、必ず妙な引っかかりが残ります。たとえば表題作「百万のマルコ」。
黄金だらけの場所で、道具らしい道具もほとんど使わずに、どうやって黄金を手に入れたのか。あるいは「掟」。
酒を飲んではいけない砂漠の民から飲み物を求められ、手もとには酒しかない。どう切り抜けたのか。
マルコの話はいつも、いちばん肝心なところが不可解なまま終わります。本人は、種明かしを急ぎません。
設問は全部で十四。黄金と酒の二つのほかにも、同じように肝心なところの抜けた噺が続きます。
聞かされた囚人たちは、黙っていられなくなります。牢のなかには、ほかにやることがないからです。
噺が終われば、また退屈が戻ってきます。それが嫌なら、噺の続きを自分たちで作るしかない。
ああでもない、こうでもないと知恵を絞り、それぞれの答えを持ち寄って、マルコの前に並べる。
読む側が向き合うのは、事件現場でも死体でもなく、語られた一編の噺です。手がかりは語り手の言葉のなかにしかありません。
現場検証も証人尋問もできず、できるのは、マルコの話をもう一度頭のなかで反芻することだけ。囚人たちと同じ条件で、読む側も答えを考えることになります。
牢の壁は、読む側にとっても壁です——外の世界を調べに行く手段は、誰にもありません。一話ずつが短く、どこから読んでも構わない仕立てなので、気に入った設問から開いても差し支えありません。
黄金の話に惹かれれば表題作から、酒の話が気になれば「掟」から。どちらから入っても、牢のなかの空気はすぐに伝わってきます。
読みどころ
読みどころは、謎が事件ではなく、噺の形で差し出されるところにあります。 死体も凶器も密室もありません。
あるのは、遠い土地で起きたという出来事の、聞き手にはどうにも辻褄の合わない一節だけ。それでも囚人たちが答えを出そうとするのは、噺のなかに答えの材料がすべて含まれているからです。
語りの外に隠された事実に頼らない——この一点で、本作は謎解きとして誠実な作りをしています。
囚人たちのやり取りも、読みどころの一つです。彼らは探偵でも学者でもなく、暇を持て余した男たちです。
それぞれが自分の知っている世界の尺度で答えを組み立てるので、出てくる推理には偏りも思い込みもたっぷり混ざります。見当違いの案がぶつかり合い、誰かがふと言った一言が、思わぬ方向へ話を転がす。
その言い合いの気配が、牢のなかの空気ごと伝わってきます。正解に近づく者もいれば、最初から見当違いの方向へ走る者もいて、その両方が同じ熱で語られるのが可笑しいところです。
マルコが本物の旅人なのか、それとも口のうまい法螺吹きなのか。その問いを抱えたまま、囚人たちは次の噺を待ちます。
答えを聞いて笑うか、唸るか、疑うか——その反応まで含めて、一話ずつの楽しみです。噺が終わっても牢の退屈は終わらず、だからまた次の噺が始まります。
作品の背景
柳広司は、シュリーマン、ソクラテス、ダーウィン、漱石、シートンと、歴史上の人物を次々に借りてきて謎解きの主役に据えてきた作家です。マルコ・ポーロも、その路線の一人です。
ただし、この一冊には一つ変わった条件があります。多くの謎解きで、探偵は現場に立ちます。
マルコは語るだけです。牢のなかにいて、遠い土地で起きたことを話す。
考えるのは聞き手の囚人たちのほうで、彼らも牢から一歩も出られません。探偵にも聞き手にも現場を与えない、という条件をこの作家が自分に課した一冊と読めます。
刊行の履歴は少し変わっていて、2007年3月に創元推理文庫から文庫オリジナルの連作として出たのち、2022年3月に集英社文庫から320ページの新版が出ました。
手に取るなら
現行版は集英社文庫、320ページ。創元推理文庫版の十三話に新作一編を加えた決定版なので、いま手に取るならこちらです。
ミステリを普段読まない人にも差し出しやすく、頭の体操のつもりで一話と開いたつもりが、気づけば牢のなかの言い合いに混ざっている。そういう読み方のできる本です。
ジェノヴァの牢に、新入りが一人放り込まれる。その日の夕方から、話は始まります。
柳広司について
柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。
同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。
初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。
2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。
書誌情報
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