ミステリーとしての読みどころ
ポアロではない、もうひとりの名探偵がいます。英国の田舎村にひとりで暮らす老婦人、ジェーン・マープル。
派手な捜査も現場検証もせず、客間の椅子に腰かけたまま、人々が持ち寄る昔の事件の語りに耳を傾ける——それだけで真相にたどり着いてしまう探偵です。『火曜クラブ』は、そのマープルが初めて推理の腕前を披露した、13編からなる連作短編集。
のちの長編で読者を魅了する「聞くだけで解く」探偵の原型が、ここにあります。
著者について
著者のアガサ・クリスティーは、1890年に英国デヴォン州トーキーで生まれました。1920年、長編『スタイルズ荘の怪事件』で作家としての第一歩を踏み出し、本書のもととなる短編を書き継いでいた頃には、すでに『アクロイド殺し』をはじめとするポアロものの長編で世界的な名声を得ています。
その傍らで、彼女はもうひとつの探偵像をひそかに育てていた。それが、村の噂話に通じた老婦人マープルです。
収録作はもともと1927年から1931年にかけて各誌に発表されたもので、英国では1932年に Collins Crime Club から『The Thirteen Problems』としてまとめられました(米国版は翌1933年、『The Tuesday Club Murders』の題で Dodd, Mead から)。マープルの登場作としては、長編『牧師館の殺人』(1930)に続く位置づけにあたります。
ある火曜の晩、マープルの家に幾人かの客が集います。甥で作家のレイモンド・ウェスト、かつて警視総監を務めたサー・ヘンリ・クリザリング、画家、聖職者——職業も来歴もばらばらな面々です。
話題は、ふとしたはずみで「解かれないまま終わった事件」へと向かいます。そこで持ち上がったのが、ひとつの趣向でした。
各自が自分だけは真相を知っている過去の事件を順に語り、残りの参加者がその場で推理を競う。語り手は最後に「実はこうでした」と答え合わせをする——この遊びが、〈火曜クラブ〉です。
こうして客間には、奇妙な謎が次々と持ち込まれます。消えてしまう血痕をめぐる話。
「青いゼラニウム」という言葉が死を予告したという不吉な一件。そのどれもが、語り手にとっては手に負えなかった難物ばかりです。
事件そのものは血なまぐさく、あるいは薄気味悪く、客間の穏やかな空気とは裏腹の翳りをまとっています。都会帰りの紳士たちが知識と論理を尽くしても、答えはなかなか輪郭を結びません。
持ち寄られた謎は、語られるそばから場の全員をゆるやかに巻き込んでいきます。
面白いのは、その輪の中で最も目立たない人物が、いちばん場違いに見えるところです。田舎の老婦人が、都会で起きた犯罪の話にどう関われるのか——客たちは半ばマープルの存在を忘れかけます。
ところが話がひととおり出尽くしたころ、彼女はこともなげに口を開く。「あら、それは村の誰それさんが起こしたあの出来事とそっくりですわ」と、都会の難事件を、自分の暮らす小さな村の日常の一齣に重ねてみせるのです。
読者は、紳士たちの推理を追いながら、その脇でひとり別の道筋をたどる老婦人の視線を、はらはらと見守る位置に立たされます。
読みどころ
読みどころは、名探偵の「解き方」そのものが、一編ごとに立ち上がってくるところです。 マープルの推理を支えるのは、専門知識でも大掛かりな捜査でもありません。
長い歳月をかけて小さな村の人間模様を観察しつづけた経験と、そこから引き出される類推だけ。人の営みは所を変えても似通うという確信が、彼女の武器です。
この「日常から犯罪を読み解く」流儀こそ、のちの長編シリーズで磨かれていくマープル像の核であり、その原型が本書ではみずみずしいまま味わえます。
加えて、連作短編という形式が読書のリズムによく効きます。各話は独立していて、一編読み切るごとにひとつの謎が畳まれる。
長編のように筋を追いかけつづける集中を求められないので、読書から少し離れていた人が勘を取り戻すのにも向いています。寝る前に一話ずつ、あるいは移動の合間に、という付き合い方にもよく馴染む一冊です。
長編に腰を据える読書もいいけれど、まずは短い尺で名探偵の切れ味を味わってみたい——そんな読者にはうってつけの入り口になります。ポアロから入って、クリスティーの別の顔に触れてみたい方にもよいでしょう。
もっとも、章をまたいで積み上がる大きな謎や、ぐいぐい引き込む長編の推進力を求める向きには、この一話完結の淡々とした佇まいは物足りなく映るかもしれません。それでも、一編ごとに披露される鮮やかな幕切れの手際は、短いからこその贅沢です。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、中村妙子訳です。紙の書籍でも電子書籍でも入手しやすく、シリーズを追って読み進めるにも支障がありません。
ポアロを読み終えて次の一冊を探している方に、そして英国黄金期の本格ミステリ短編の味わいを知る入り口として、気持ちよくおすすめできる一冊です。