ミステリーとしての読みどころ
ベッドから一歩も出られない病人に、殺人事件の捜査ができるでしょうか。しかも取り組む相手は、百年以上も昔に裁きの終わった一件です。
手元にあるのは一冊の本だけ。訪ねるべき現場も、問い詰めるべき相手も、とうに時間の向こうへ消えています。
『オックスフォード運河の殺人』は、その圧倒的に不利な条件のまま、静かに謎解きを始めてしまう一冊です。
著者について
作者はコリン・デクスター。本書(原題 The Wench is Dead)は1989年に発表された、モース主任警部を主人公とするシリーズの一作です。
英国推理作家協会賞のゴールド・ダガー賞を受けた作品でもあります。
病床の人間が、資料だけを頼りに過去の事件を眺め直す——この趣向には先例があります。出版社の紹介が引き合いに出すのは、歴史ミステリの名作『時の娘』。
遠い昔に確定したはずの出来事を、動けない男がベッドの上で検討し直すという設定を、本書はまっすぐ引き受けています。引き受けた上で、そこに座らせたのが現職の警察官だという点が、本書ならではの持ち味です。
捜査を職務とする人間が、捜査のできない場所に閉じ込められる。その状況設定だけで、もう物語が始まっています。
物語の入り口
物語は、モース主任警部が病院のベッドに縛りつけられるところから動き出します。不摂生がたたっての入院生活。
事件の現場は呼び鈴の届かない遠くにあり、目の前にあるのは天井と、少しずつしか進まない時計の針だけです。事件を追う職務にある人間にとって、何も起きない時間ほど始末に負えないものはありません。
することがないという状態は、身体の不調とはまた別の種類の重荷として、この患者にのしかかります。その持て余した時間の気晴らしとして彼の手に渡るのが、ヴィクトリア朝時代の殺人事件を扱った一冊の研究書、その名も『オックスフォード運河の殺人』でした。
その本が語るのは、19世紀に起きた一件の殺人です。一人旅をしていた女性が命を落とし、その罪で二人の船員が死刑となった——すでに調べがつき、すでに判決の下った事件。
ページの上では、話はきれいに閉じています。一人の女性が死に、二人の男がその代償を払い、事件は歴史書の数ページに収まった。
そう書いてしまえば済むはずの出来事でした。百年以上も前に幕を下ろした古い殺人は、退屈しのぎの読み物としてモースの膝に置かれたにすぎません。
少なくとも、最初の数ページを読むまでは。
ところが、読み進むうちに、彼の頭にいくつもの疑問が浮かんできます。書かれていることの、どこかが噛み合わない。
確定済みのはずの記述の隙間から、説明のつかない引っかかりが次々と顔を出す。ここから先、彼にできるのは考えることだけです。
現場へ足を運ぶことも、目撃者を呼び出すこともできず、材料になるのは紙の上に残された言葉のみ。読者もまた、その同じ言葉を同じ順番で受け取りながら、ベッドの脇に椅子を引いて座らされることになります。
動かない体と、百年以上前の運河へ向かって走り出す頭。この落差こそが本書の駆動力で、静かな病室はいつのまにか、たった一人の捜査本部へと姿を変えていきます。
読みどころ
読みどころは、捜査の道具を根こそぎ奪われた探偵が、それでも捜査をやめないという一点に尽きます。 聞き込みも鑑識も使えない以上、頼れるのは記述の矛盾を見つける目と、そこから筋道を立て直す論理だけ。
そしてこの条件は、読者にとってもきわめて公平です。探偵が握っている材料は、読者が今まさに読んでいるものとほとんど変わりません。
だからこそ、読みながら自分でも考えたくなる。ページを繰る手が止まり、少し前の記述を確かめに戻る——そんな読み方を自然に誘う作品です。
もうひとつ、本書には歴史を扱うミステリならではの手応えがあります。人ひとりの生死をめぐる判断が、記録という頼りないものの上に立っている。
その記録を疑うという行為が、ここではそのまま謎解きの手続きになります。しかも本書はシリーズの一作でありながら、主人公が日常の職務から切り離されているぶん、彼の思考の運びそのものが前面に出てきます。
派手な立ち回りを一切封じたまま、これほど張り詰めた読み心地を作り出せるのかと感心させられるはずです。
こんな人におすすめ
相性の話をすれば、聞き込みや追跡の疾走感、現場の緊迫を主菜に求める読者には、本書の歩みはずいぶん静かに映るかもしれません。事件は動かず、探偵も動かない。
動くのは思考と、めくられるページだけです。反面、古い資料の文言をためつすがめつしながら考えるのが好きな読者、そして過去の出来事を洗い直していく物語に弱い読者には、これ以上ない一冊になります。
頭をしっかり働かせながら読みたい夜には、うってつけの相手です。
手に取るなら
現在の版は早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫。モース主任警部シリーズの一作ですが、扱われる題材がシリーズの日常から離れた過去の事件であるぶん、この巻を入り口に選ぶ手も十分に成り立ちます。
気に入れば、そこからシリーズの他の巻へ足を延ばす楽しみも待っています。ベッドの上だけで完結する捜査が、賞に値する謎解きとして成立してしまう。
その鮮やかな逆説を、ぜひ確かめてみてください。