誰も彼もシロに見えた。
チョールフォント荘の恐怖
便宜結婚の館で起きた殺人。フレンチ警部が秘密を解きほぐす一作。
サリー州にたたずむ古い館、チョールフォント荘。その女主人におさまった若い女性が、あろうことか隣人へ心を寄せたとき、平穏に見えた家庭は取り返しのつかない方向へ傾きはじめます。
銃声も絶叫もない、抑えた筆致の発端。けれど打算で結ばれた結婚がほころんでいくその過程こそが、やがて一家を殺人へと引きずり込む導火線になります。
黄金期英国を代表するF・W・クロフツが、円熟した後期の手つきでフレンチ警部を差し向けた一作です。
物語の入り口
探偵役は、ロンドン警視庁のフレンチ警部。クロフツが第5作『フレンチ警部最大の事件』で生み出し、生涯の相棒とした探偵です。
名探偵の閃きに頼らず、足で稼ぐ地道な捜査とアリバイ崩しで謎に迫ります。
物語の中心にいるのは、ジュリアという若い女性です。十五歳の娘を抱えたまま夫に先立たれ、暮らしの後ろ盾を失った彼女は、事務弁護士リチャード・エルトンとの再婚に踏み切ります。
そこにあるのは愛情ではなく、生活のための打算でした。それでも、チョールフォント荘の女主人としての日々は、表向き穏やかに過ぎていくはずだったのです。
その均衡を崩したのが、一つの恋でした。夫への情を欠いたまま日々を送るジュリアは、いつしか隣人へと抜き差しならぬ思いを募らせていきます。
愛のない結婚と、その外側で芽生えてしまった感情。この二つが同じ屋根の下で静かに軋みを立てはじめたとき、物語の空気は目に見えて張りつめていきます。
読者は、まだ何も起きていない館の食卓や応接間に漂う、あの言いようのない居心地の悪さを、女主人のすぐ傍らで共に味わうことになります。誰かが声を荒げるわけでもなく、事件らしい事件が起きるわけでもない。
それでいて、綻びは確実に広がっていく。この静かな不穏の描き方こそ、後期クロフツの真骨頂です。
そして、折も折、ジュリアの夫が殺されます。それまで表沙汰にならなかった家庭内の事情は、一夜にして警察の知るところとなりました。
ところが捜査は思うように進みません。殺害の動機を持つ者、あるいは機会を持つ者は、調べを進めるほどにことごとく容疑の圏外へ去ったかに見えるのです。
誰にでも疑いがかかりそうでいて、誰も決め手を欠く。この宙ぶらりんの膠着を解きほぐすべく乗り出すのが、フレンチ警部でした。
読みどころ
読みどころは、事件そのものよりも、事件へ至るまでの家庭の温度にあります。 クロフツはいきなり死体を転がしてみせる作家ではありません。
愛のない結婚がどこでどう歪み、どの糸がどこで切れそうになっているのか。その内側の緊張を丁寧に積み上げたうえで、満を持して殺人を置く。
だからこそ、事件が起きたあとに掘り起こされていく家庭内の秘密の一つひとつが、単なる手がかり以上の重みを帯びて響いてきます。
謎解きの牽引役は、もちろんフレンチ警部です。若い部長刑事を伴い、いつもの丹念な手つきで容疑者たちのアリバイと事情を一つずつ検めていく。
派手な推理ショーではなく、地道な照合と足取りの積み重ねが真相へ通じていく。その捜査手続きそのものを味わう楽しさは、後期クロフツならではの落ち着いた作りに支えられています。
公式の惹句が「終局まで予断を許さぬ」とうたうとおり、膠着から一歩ずつ進んでいく捜査の呼吸に、最後まで身をゆだねることができます。
こんな人におすすめ
派手な逆転劇や血なまぐさい演出を求める読者には、この静かな運びはいささか地味に映るかもしれません。逆に、事件の背景にある人間関係がじっくり描かれ、そこへ論理的な捜査がゆっくり切り込んでいく——そういう手続きの妙味こそがミステリの醍醐味だと感じる読者には、迷わず薦められます。
名探偵の閃きより、真面目な刑事が汗をかいて真相へたどり着く物語が好きな方にこそ、この一作は合うはずです。
作品の背景
本作は、1957年に没するまで書き継いだクロフツの長い作家人生の後期にあたる一冊で、原著は1942年の刊行です。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫版です。訳は田中西二郎。
1907年に東京で生まれ、東京商科大学を出て中央公論社に勤めたのち、英米文学の翻訳家として活躍した人で、メルヴィル『白鯨』やグレアム・グリーン『情事の終り』の名訳でも知られます。腰を据えて捜査の手順を追う、後期クロフツの落ち着いた味わいを、その端正な日本語で楽しんでください。
F・W・クロフツについて
F・W・クロフツは1879年にアイルランドのダブリンで生まれ、1957年に亡くなりました。アルスター地方で育ち、同地で鉄道技師として働いていましたが、40歳のころ病を得て長い療養を強いられ、その間に書いた『樽』が1920年に世へ出て評判を呼びます。
以後も技師の仕事を続けながらほぼ年に1作のペースで長編を発表し、50歳で職を退いてからは作家業に専念しました。
第5作『フレンチ警部最大の事件』で生まれたフレンチ警部が、以後の長編を通じての探偵役です。天才的なひらめきではなく、足を使った聞き込みと裏づけを積み重ねてアリバイを崩していく作風で、黄金期の英国探偵小説のなかでも写実を重んじる書き手として知られます。
犯人の側から描いた『クロイドン発12時30分』も代表作に数えられます。
書誌情報
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